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臆病な自尊心と尊大な羞恥心、の一文で有名なこの山月記、道徳的な訓話にすぎないなどと言われてもいるけれど、それはおそらく主人公が自分の変身の理由を自分自身で理解してしまっている点にあるだろう。すべての葛藤はもうすでに事後なのである。
主人公の李徴、彼こそが虎に変身する人間だが、その何よりの発端は官吏の職を退いて詩作にとりかかったことにあるだろう。なにも、彼は辞める必要などなかったのだ。役人のまま詩人になった人も多くいたしそうすれば詩人そして成功しなかった時でもそれ相応の地位には残ることができて、自分が見下して来た人間の下に就くこともなかったのだが、臆病な自尊心に邪魔されて誰かの弟子になることも仲間を作って群れ合うこともしなかった。誰かに自分の作品を見てもらおうとしなかった。そしていよいよ詩で有名になるのは容易ではないなと元の職に帰って見れば人の下であるのが堪えられなくなり遂に発狂するように虎になった。虎になってかつての友に出会ってからも彼は虎になってしまったことを嘆きこそすれ元に戻れまいかと願う節は見られず、虎としての身分に甘んじて地獄のミサワ的に「虎になってマジつれーわー」してばかりいる。そしてこのまま完全に虎になってしまった方が自分は幸せだと思ってさえいる。
しかしこれが単なる道徳的な訓話でないと言える最大の理由は、李徴が虎になってもなおその性格を改めていないところにある。これで性格を改めて虎から人へ戻ってしまってはいよいよ訓話となってしまう。そうでないが故にこれは太宰治の人間失格に比肩するダメ人間小説となったのだろう
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