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刺青を自分からすすんでいれたくせに堂々と日向を歩きたがる人たちを僕は理解したくない。

ピエロの化粧をして街を歩いてみよう。
そうすれば人からじろじろときっと見られるだろう。
そうやって街を練り歩いて学校の近くをうろついて見れば
まず間違いなく不審者情報が、そういうことに敏感になる以外にすることのない母親達の携帯へ届けられるだろう。

そう反応されては心外だ、傷つく! と叫んでいるようなものだ刺青で日向を歩こうとするのは。
他人の生死を決定してみたくて赤の他人の息の根を止めてみたら人殺しと言われて心外だと言うようなものだ。
空気抵抗を減らしちょっとでも早く走れるように体中の顔中の毛を抜いて顔も新幹線型に整形したら通りすがりの人間に笑われるようになって傷ついていると言うようなものだ。

手に入れるために手間賃以上に対価の必要なものがある

そもそも僕は刺青をいれようとは思わない。
どんな模様にしろ絵にしろ記号にしろ言葉にしろ、飽きるのが眼に見えているからだ。
僕の好きな模様も絵も記号も言葉も年を重ねるごとに変遷してきた。
それなのに外見上でだけは一過性の好きな物を、一生に渡って貼付け続けなければならないのか、と考えてしまう。

それに刺青は大概が若いうちに彫りつけるものだが、若いうちに自分を限定してしまったり定義してしまっていいのだろうか、僕にはそれが危険なように感じる。

それどころか大概の刺青を入れている人間はそんなところに刺青入れていたくなかったですかと訊かれて初めて「ああこれね」みたいな反応をとるじゃないか。感覚の麻痺もいいところだ。人がまずそこを見るのを忘れているじゃないか。
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