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僕は半分がオーストラリア人であるにもかかわらず
この国において今住んでいるケアンズと生れ落ちたパディントン以外の土地を知らない

しかしそれはあまり不自然なことでもない

今の日本ではあるいは考えられないことだが
大陸等においては首都へ赴くこともなく死ぬ者だっている

自分にとって最も住み良く整えた我が家で
テレビを通してよその土地を眺めながら
瓶のビールをそのまま口をつけて飲み、そしていつか死ぬ

この一生をたとえば証券会社にて働くエリートが理解できるだろうか
人々の思惑が交錯する都会に出て頂点を目指さないことをだ

エリートは都会で生きる
都会にあふれる数々の刺激のなかで
高級な刺激と低級な刺激があることを彼はいつしか知った
人々の渦の頂点に立つ者同士で社交し
ありったけの栄誉と権力と資産を抱えて彼は死ぬ

田舎者の死と都会人の死
その二つに果たして差があるのか
低級か高級かは差し置いて、(人はどのみち低級だ)
彼らはそこで生き、死んだ
その死ぬ間際まで両者ともにその人生に
一つも心残りが無かったのなら
二人が享受した幸福にきっと差などないのだろう

だが果たしてそれでよかったのかと疑問が残ってしまうのは
僕が資本主義的な人間だからだろうか?
来週ブリスベンに引っ越す身となってその疑問が
目の前を名前の思い出せない誰かのように通り過ぎようとしている
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