人権擁護法案とかいう言葉の響きだけはすばらしい法案が国会で審議されている。

これは差別された人が「差別されたよ」って言うと
差別した人がメッてされる社会を作ろうっていう法案。

でも致命的な問題がいくつかあって
たとえばどういう行動が差別かを決めるために人権委員会ってのと
差別される人たちや障碍を持つ人たちが優先して選ばれる人権擁護委員ってのが設けられるんだけど
弾劾裁判みたいに決定権を持つ人たちを裁く機能が設けられないようになってて
つまり人権委員の判断基準しだいで
「道行く外国人に日本語で挨拶して彼の母国のプライドを傷つけた」とも
「道行く外国人に彼の母国語で挨拶して彼の日本になじもうとするプライドを傷つけた」
のどちらでも差別になりうるし
国民がそれをおかしいって言っても人権委員会はその声に耳を傾けなくてもいいし
間違ってても謝らなくてもいいってことになる。

つまりこの人権擁護法案とは極めて独裁的な法案なんだよね
人権擁護委員は公務側が選ぶから政府にとって有利な思想を持つ人間で委員を固めることができるし
それは事実上の言論統制、思想統制になりえないと声を大にして言えるものではないね。

そしてこの法案、あまりにひどいものだから一度否決されてるんだよね。

なのに、昨日(13/05/11)に民主党の法務大臣がつまるところ
「もっかい提出しちゃうぞ☆」って言い出したんだよね。

そんでもってこの法案にはメディアの規制は含まれないんだよね。

だからテレビとかは除いて僕たちの発言・行動だけが規制されるの。

しかもそうやって「メディアの規制はしないぞ☆」って言うのは
「言うこと聞かなかったらメディアも規制しちゃうぞ☆」と汲み取れないこともない。
もう2011年なのに1984年に逆行する可能性があるね(笑)


ちなみにさ
僕は思うんだけど
差別について変わるべきなのは差別する側だけなのだろうか。

差別はすなわちいじめではないことを考えてみてほしい。

僕自身混血というステータス上差別されたことは多々ある。

だけどそもそもこの混血のぼくが「あいのこ」という差別用語を使っても問題になったりはしない。

差別が差別となるのは差別する側の差別の意識だけではなくて
差別される側の卑屈でそれでいて厚顔な精神にもあるのではないか。

差別されているらしい人間がみんな乙武洋匡みたいになってみたら
差別はなくなるんじゃないかと思うね。
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