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ウディ・アレンの名作「アニー・ホール」の中に以下の台詞がある「A relationship, I think, is like a shark. You know? It has to constantly move forward or it dies. And I think what we got on our hands is a dead shark」
恒久的な人間関係などありえないと、多くの智者たちは知っていた。唐詩選のなかの「人生即別離」を知らなくたって、中島みゆきの歌さえ聞けば「別れはいつもついてくる幸せのうしろをついてくる」ことをすぐに了解できるだろう。
通過点のような出会いがある。一定の期間にのみやけに親しんだのちふっと会わなくなってそれっきりのような、そんな人間関係が人生のなかには時々あるものだ。そしてそれが最も意味を持つのは青春時代なんだろう。
よくできた青春小説は、「恥が後にいい思い出になる」という青春特有の性質に多分に依存していることが多いため、たとえそれが傑作だったとしても二度読むことが辛いときがある。けれどもこの作品にあっては違う。何度読み返して立ち返っても平気な気の抜けたユーモアに全体がくるまれているために全く年齢の気負いなく読める点においてこの作品はすばらしい。
青春は前述の性質だけでなく、同時に共感の欠如による攻撃性を持ってもいる。無知で無根拠ながら物事を知った顔で人を傷つける。物事を知っているなら上手な傷つき方も知っているはずだが、ただそのように見せかけているだけなので、信頼した人に見捨てられると答えもわからず混乱する。
ぼくはもう少しで青春という言葉でなにかを片付けられなくなる年齢になろうとしている。25になるわけだが、人は僕のこの言いをふざけたことと思うだろう。現代社会はなぜこうも早熟することを強いるのか。若い人間が余裕なく努力し続けなければ人生が大変なことになってしまうのだという社会全体の強迫観念が今後弱まることはないだろう。僕は身近な大切な人々が合理性や安定を理由に自己を矮小させるところを何度も見てきた。そのたびに悲しくなった。先のウディ・アレンの言葉にあるように死んだ魚を無理矢理に動かさせるような人間関係を求めるのがいまの合理主義的な人々のつながりだ。そこには当然無理があり、無理があるなら当然痛みが伴う。僕は文学バカだから、合理性とは対極にある。彼らから見て人生の無駄でしかないものにばかり価値を見出すから彼らに呆れられ捨てられるのは当然のことだ。だがどれだけ愛して信じていた人間に捨てられても僕は人生の無駄から眼をそむけられない。愛情はその対象の非効率性の許容から生まれるからだ。そうしたところで仕事に行ってしまった飼い主は帰ってこないのに扉を爪で掻きつづける犬を愛くるしく思えるのも同じだ。
しかし死んだ魚に無理やり電極を突き刺してぴくぴくと動かしているような現在の人間のつながり方はシンギュラリティの達成まで終わることはないのかもしれない。青春が終わる瞬間は人間関係に打算を見つける瞬間かもしれないが、もしそうだとしたら僕よりも若い世代の人間はもっと早急な青春の終わりを与えられることになるのだろう。
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