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僕は京都育ちだから普段の会話に関西弁を使うしこうやって文章を書くときも、ふざけたくなれば便利やわってかんじでそれを使うことができる。文学の中にあって関西弁は市民権を得た方言だ。そもそも方言は文学のなかにおいて価値が高い。地方に行けば行くほど、同じ言語とよその人にはわからなくなればなるほど、土着性だのなんだのと価値が出てくるし、登場人物の肉付けがとても楽になる。しかしそれは諸刃の剣でもある。この安易につけられた肉が肉であるのは同じ地方のものたちにとってのみで、それ以外の地方からすればまがいものの偏見の肉となっている。おっとりと方言で話す学のなさそうな老人をテレビなどで見ると無条件にいい人だと想像しがちなように。それぞれの読者の中の典型が、まず仮に肉付けされる。読者はその後の描写から得られるその人物の言動から新たな、より偏見を逃れた肉をつけ直す作業を読み通す中で行うことになる。この作品はその肉付けに真っ向から取り組んでいる。
中上健次を読んだときから、人物の相関がごちゃごちゃしているものは無理して覚えようとせずにごちゃごちゃのまま読むようにしたほうが楽しいと気づきそのように読んだ。しかし土着とはなんとも死にかけた言葉ではある。死にかけてもいまだ死んではいない状態がどれほど続いているだろうか。問答無用に取り残され標準から遥かな距離をとられて、まるでとある観察対象のように僕らの偏見はそう見てしまう。実のところこの小説はタイトルが「縫わなきゃならない」で内容も東京のはずれの出来事であっても成り立たせることができるのだが、かえってそこに強い皮肉がある。これは田舎での出来事だから人間性には現在の都会にはなくなってしまった暖かさがあり、素朴であるべき姿が掲示されているのだと思い込みたい僕らが最後の一章によって暴かれる。東京から離島へ戻ってきた主人公が感じることは、多くの人が祖父母の葬式で思うことからそう遠くない。それなのにある種の感動があるのは、そこにあるポジティブな偏見のためだろう。
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