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詩情を持っている人の文章はやはり山中を流れる川のような独特なうねりがある。金魚の魚拓をとりたいと言い出した作家のわがままにふりまわされて葛藤をぶつけられる装丁家の女性を描いているが、
病弱に生まれた自分がか弱い金魚が死んで魚拓を取れるようになるのをまたなければならないという上手できれいな対比もよかったが、なによりも彼の独特な言葉選びが、ふとしたことでまるでエッセイのようになりかねない作品を小説の枠にとどめている。
魚拓には不思議な魅力がある。自分が狩った獲物を剥製にしたり写真にとったりするのとはまた違う精神を感じる。魚拓は写実性において写真や剥製にはだいぶ劣るが、そのかわりにおそらく釣り上げた本人の策略の勝利による高揚が伝わってくるようだ。僕自身は一度しか釣りをしたことがない。久美浜で叔父にならって糸をたらしたが、カサゴなどを釣り上げた妹に対して僕はナマコのような、あるいは捨てられた肝臓のような謎の物体を釣り上げただけだった。肝臓のような栄養の豊富な臓器を海の生物が放っておく訳はないから一体何だったのか今でも気になる。それはそうと、そういった変なものしか釣り上げなかったので、魚釣りが語る興奮は自らのものとしては理解できなくて、もっぱら想像にすぎない。
しかし金魚の魚拓にはとても背徳的な香りが確かにする。今はもうないだろうし、そもそも僕も「ぼくのなつやすみ」の中でしか見たことがないが、昆虫採集キットの毒に興奮した子供が標本にする気もないそこらの儚い虫を捕まえて注射針を突き刺すような残酷さが満ちている。
この背徳感は誰しも持ちうるものだ。結果的にそれを迂回することができたとしても、自分にはそんなこともできるのだと頭に浮かんだ時点で背徳感は甘い酸のように染み入って忘れがたくなる。ぼくは小学校四年生だったとき、虫垂炎を起こした。虫垂は癒着寸前まで肥大していたらしく危うかったそうだ。手術のあと麻酔を抜くために尿道にカテーテルを通されたが今のところ生涯で最も強い痛みだった。退院したあとの理科の授業で、H先生がN君の育てたアゲハチョウをりんぷんがあることを教えるためにN君の許可を得てからそのりんぷんを拭い去って飛べなくした。授業の後の中間休みに籠の中の飛べなくなったアゲハチョウを見たことがずっと残っている。これは僕にとっての魚拓にされた金魚だろう。誰しもそんな金魚に変わるなにかを思い浮かべたのではないだろうか。
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