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うそをつく人だけは嫌ですとか言う人をはまるでそれを、、自分が他者を判断する上で最も正当で倫理的な基準かのように「うそ」を嫌うが、うその定義がそもそも曖昧だ。いわゆる冗談も多くの場合軽微なうそだ。何かを実際よりも誇張したり極端に矮小して言ったり、あるいは全く事実でないことをあたかも事実かのようにでっちあげたりすることが笑いの基準だと思う。それ以外の笑いは「あるある」という同意くらいしかないんじゃないか。老人が「この歳になると大事なものは外に出しとかないといけない。なくさないように大切にしまうとどこが大切なもの入れか忘れてしまう」という話に他の老人たちが笑うような。「うそが嫌い」だという人はそんな会話しかしないのだろうか。友達同士一緒におしゃれなカフェに行ってケーキを食べてふたりとも同時に「おいしー!」と叫んで「あっ同時だったね」と言ってあははって笑うようなことしかないのか、そうだとは信じられない。
うそは冗談と詐欺の中間だ。冗談よりもその虚構が事実でないことを知られると対象が精神的/物理的に無害でない確率は高いが、詐欺ほど他者に不利益あるいは損害をもたらしうるわけではない。冗談だっていくらでも人を傷つけうるし、一日の中でぼくらが実社会を生きる上でどれほど冗談を使っているかを鑑みるに、社会は事実でないものによって円滑に動いていると言ってもいい。
虚構への言及がここまで社会的な意味をもつなら残りの問題は倫理のみとなる。「うそはよくない」という言葉は結局のところ倫理にもとることをしない人々、道徳観念に忠実である人々を識別する台詞であると考えられる。しかし虚構への言及が明確に虚構であることと比べると、倫理や道徳はどれほど曖昧な基準だろうか。歴史上それが不変だった試しなどないのではないか。それならば「うそは嫌い」な人やうそをつかない人はうその利便性を捨ててなお流動的な倫理道徳にもとづいているのか。しかしそれは弱者の問題だ。嘘をつかなくても自分の我を潤滑に通せる強者たちが世間にはいる。
古くは「ポトスライムの舟」のころから最近の「牢名主」まで津村記久子はそのような自覚なく我を通す強者をなんとかやり過ごそうとする弱者を描いてきた。この短編を読んで、いままで社会人の葛藤などというお粗末な解釈しかできていなかった僕に新たな目を開かせてくれた。いい小説だ。
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