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今月は群像にも新潮にも彼の作品が載っていてなんだか得した気分だ。個人的には群像に掲載された「あなたのなかの忘れた海」よりもこちらのほうが読んでいて自分のなかにすっと入ってくるようだった。スイミングスクールとは題をうっているが、次第にえがかれゆくもののなかでそれはあくまで自由に思い出すままにまかせたい時間軸の旋律を支える通奏低音のようにささやかに鳴るだけだ。
主人公の鈴村早苗は娘のひなたとともに死んだペットの胡桃を火葬した。その翌日からスイミングスクールへ行きたいと言い出す娘に、そうさせながら早苗は自分もまたかつてスイミングスクールへ行ったことや、一人で自分を育て習い事をさせそして一人で自分の人生に始末をつけるように死んだ母のことなどを思い出す。
母とひなたのことはまるでそれが左右のように対称するものかのごとく描かれている。そしてその二人を早苗が最短距離で結びあえるものこそがスイミングスクールだ。光の加減だろうと早苗自身は推測しているが、まだまだ乳児期であるひなたに母がおそるおそる指を伸ばし、それをひなたがつかみその一瞬が切り取られ止まったかのようなシーンはこの一編のなかでもっとも重要だろう。誰でも当たり前のことだが人は自分の大切な存在がいなくなってしまったことをありありとそのままに思い出せるものではない。すくなくとも全員がそうではない。ぼくも物心ついたときから寝たきりだった祖母がなくなったときのことを火葬場の待合室の雰囲気でしか思い出せない。思い出したくはないのだから仕方がない。もちろん死んでしまった母や胡桃のことなどは思い出したくなくてもちらりとは思い出してしまうものだが、それでも偲ぶ気持ちはそれをさっさと追い払って生前の印象へ潜っていこうとする。そうする早苗のまわりをひなたはまったくきままに自分が死ぬことなどありえないように病気をしても数日で快癒し抜けた歯を早苗にみせて自分の再生能力をみせつけてくる。早苗はアルバムでさえも捨てた母が唯一残したカセットテープに残された自らがひなたと同じく十歳だった自分の声が残されていた。はじめはスイミングスクールしかなかった三代の母娘を結びつけるものがこれによってそのつながりを一層ましたことを感じさせ、早苗のなかでの変化を感じさせてくれる。早苗は決別しようと母のテープを埋めかけるがやっぱりやめ、自分の家に置いておくことにする。
高橋弘希の文章は密度があるのに読みやすい。最近は情景の描写も舞台が変わったはじめにだけおざなりに描いただけのものも多いが、彼はしっかりと描いている。彼の作品は戦時中などの現代でないものもあるが、そういった時代設定を選ぶのも単に懐古しようとするのでなく、長ったらしい心情の描写よりも情景の描写がもっと鮮やかに読者にまで登場人物の内面を表してくれるのだと信じているからだと僕は思っている。そこにしかない情景を描くためにその時代設定がたまたま必要だっただけなのだ。だからこれからも彼は自分のなかの必要に応じてまた戦時中あるいはそれよりももっと前後を描くかもしれないし、僕は書いてほしいと思う。
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