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僕はミーハーだけどそうは思われたくもない見栄っ張りだから先に言っとくけど映画化が決まる前から買ってたんだからね。
映画化される話を聞いて本棚から探し出してきたわけだからミーハーなことにはかわりないけれども。

小林秀雄がシーザーのガリア戦記を読んだ時に、読むことを止められなかった。
面白かった以前にシーザーが止まらなかったからだという文章を見て強く頭に残っていた。
村山聖の生涯を観ていると、同じような感覚にとらわれた。

村山聖の姿勢はまさに生きることに強く依存している。
しかしそれだけではない。なによりも彼は常に勝とうとしていた。
勝つこと、および勝とうとすること、その時人はまさしく自らの生を意識できるのじゃないだろうか。
勝ち負けはよくないから最近の運動会は手を繋いでゴールするという誰もが口にするものの実際にどこの学校がそうだったのか聞かない話などに代表されるように勝負はよくないという風潮ははびこっているようだ。

馬鹿げていると思う。
勝負のない人生は起き得ないしこれからの時代はどんどんありえなくなっていくだろう。
僕は勝負事がきらいだ。
それは僕がとりもなおさず生きていることがある種うんざりするほどのめんどくささそのものだと思ってならないからだ。そんなことを聞いたらきっと村山聖に君は負け犬だと言われるだろう。
仕方ないと思う。
戦うこと、これほど人を集中させるものはない。
村山聖の人生は毎日が勝負だったのだから彼が集中することの天才だったのは言うまでもない。
なにしろ次の朝ほんとうに目覚めるかどうかも定かじゃなかった。
眠る時ですら勝負しなければならなかった。
彼は二十九でその生涯を終えるわけだが、戦い続けた彼の時間の密度は圧縮され常人よりももっと長かっただろうと思う。

勝負がいけないという思想は恐怖の不足によるものだ。
恐怖がぼくらの時間が無限でないことを告げるからその時間を少しでも圧縮させようと集中させてくれる。
映画ファイトクラブの中でブラッド・ピットがコンビニの店員に銃を突き付け、「お前の夢はなんだったのか」と尋ねる。
彼は獣医になりたかったと応える。
ブラッド・ピットはお前の名前と住所は覚えたから三年以内に獣医にならなかったら殺すとおどして彼を逃がす。主人公のエドワード・ノートンはなぜそんなことをしたのかと問う。
「これで彼は明日から全く違う朝を迎える」とブラッド・ピットは言う。

それが僕には圧倒的に欠けている。
一度ある女性にキレられて、友人は僕が刺されるんじゃないかと怖かったと言っていたが僕はなぜか全く怖くなかった。
僕はどうしてか笑ってしまっていた。
笑うなと怒鳴られても笑っていた。
刺されても痛いだろうけど大丈夫だと思えて笑っていた。
腹に向かった凶器が皮下脂肪と筋肉を貫いて内蔵に到達する前に、肉に刺さっていく感触が手に伝わった女が先に怯えて凶器を落とすだろうと思うと、そんなにうまくいくだろうかと自分自身に突っ込んでしまって余計に笑ってしまった。
笑っているうちに女はいなくなっていた。
貴重な体験ではあったが、戦わずに避けただけの僕は何も得なかったと思う。
本気で逃げるなり本気で組み伏せにかかるなりの集中が欠けていた。
僕は笑って流せるだけでやはり負け犬でしかない。
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