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内村薫風「鏡」

 鏡に映った存在が自分自身だと認識できる。鏡像認知はぼくらがきわめて頭脳の発達した生物であることを保証してくれるありがたい能力だ。鏡像認知をできる生物はこの地球上にわずかしかいない。覚えている限りではチンパンジーやオラウータン、ゾウやハンドウイルカなど。しかしこれほど鏡像認知を利用する生物は人間しかいないだろう。自分の顔や髪型を見たり車を運転したりで、鏡を利用しない日は殆ど無い。無意識に自らの行動と対照的に呼応する自らの存在に結びつけている。しかし皮肉っぽくなって見てみればそれは、もっともそれらしいものをそれ自体なのだと信じようとする我々のこじつけるような本能が垣間見えてくる。
 本書においてはじめて鏡が登場するのはミラーニューロンが見つかった時のエピソードだ。ミラーニューロンは高等生物がもつ模倣と反復を繰り返すことで対象を学習するよう促すべくある神経細胞だ。つまりまず最初に鏡が何かをただ自らを映し出すものではなく、目前にあるものを自分自身と重ね合わせ学習するためのものと定義している。
 前作の「MとΣ」を僕は読んではいないが、芥川賞の選評で知り、面白そうだなと思っていた。まるっきり言い訳をすると受賞作を読むほうにお小遣いを優先させてしまったのだ。だけど、選評から予想される手法は今作でも使われている。一つの話をしていたら別のものが連想されるままにそっちへ移ってそこから連想されるものにそのまま行ってしまう。僕なんかも話をするとそのタイプで、気づいたら一体なんの話をしていたか忘れていることもしょっちゅうある。しかしこの作家は僕よりも50ほどIQが高いのでそんなことにはならない。伝えたいものの外周を連想で飛んでいってまるで縁日の型抜きのようにくり抜こうとしている。
 鏡についての話はミラーニューロンからいきなりベラスケスへと飛ぶ。十六世紀の偉大な画家ベラスケスはなんというか僕にとっては時宜を得た人物だ。この小説では群像で大澤真幸が連載している「世界史の哲学」において取り上げられて知ったばかりだった。大澤真幸においてはキリスト教を信仰しつつ王が民衆の上に君臨するために必要な二身制、人としての彼と王としての彼の二重存在を説明するためのものだったが。内村薫風にあってはベラスケスについてのひろがりは主にその基礎知識にとどまりラス・メニーナスの作者、および宮廷内のあらゆる人物を優しく尊重する眼で見た目線の低いものとしての彼、落とした絵筆を王が拾ってくれるというエピソードが作り上げられるほど王から信頼されていた彼を描いている。そして一番大事なこととして「ラス・メニーナス」にて最奥に配置された人物、部屋に光を呼びこむためカーテンを開けている使用人ホセ・ニエトがまるで鏡で反射させたようにベラスケス本人に似ているということ。
 それと同時に主人公の過去におきた虎の脱走事件についての顛末が語られる。主人公の双子の兄が街角で、動物園から脱走した虎をたまたま見かけたため、体育館で猟友会や教師にその顛末を話しているのだが、拍子抜けするほどに緊張感がない。それはあたかも安部公房作品の登場人物のように緊張しなければならないから緊張しているような本末転倒したようなずれがあって、ベラスケスの絵が「ラス・メニーナス」を含め多く展示されているプラド美術館での兄との会話をそっくり適用したようだ。
「鏡は平面だ。二次元のところに、三次元の現実があるように見えているだけだ。絵も同じだ。映画もそうだ。どれほど実感があっても、しょせんは平面なんだ。どんなに瓜二つでも、鏡の中ものは、ただの物に過ぎない。」
 作家は現実もまた鏡と同じように投影によって自分自身と関連づけている虚像にすぎないと看破している。虚像に対して歯を剥き威嚇するのはとりもなおさず自分自身にそうしているのだと指摘する。猟師と兄弟が虎と鉢合わせたとき、偶然家から鏡を手にした中学生が出てくる。おろおろした中学生は武力をもった虎と猟師とを交互に鏡へ映し出し、両者はひるむ。しかしその虚像を虚像と先に信じきることのできた猟師が虎を殺す。最新の時間軸において主人公は他国機の領空侵犯に備えるアラート待機中の航空自衛隊パイロットであり、領空侵犯した某国の機体と並んで飛行し、職務規定にそって写真をとろうとする。そのときに彼は自分自身とその仮想敵国のパイロットとが互いに映し合うかがみであることを知る。鏡の模倣によって相手を知る我々の本能はイデオロギーやナショナリズムを超越して混交しあえるものだと言い切る。そしてパイロットは仕事ののちに、ロッカールームへ入るところが間違えてラス・メニーナスの中に入ってしまう。まるで、当時その作品を見たフランスの文芸評論家が「絵はどこから始まるんだ!」と叫んだように、境目のないような、人間の内部と外部を結ぶようなその境地へ入ってしまう。
 読むという行為は頭脳でそのテキストを再生することだ。現代では速読などのスキミングテクニックがもてはやされていて、ネットでは新書や実用書といいうような類の本が必要とされ小説は軽んじられている。ネットと文芸は相性が悪いから仕方がないと僕は思っている。むしろ大事なのは小説とそれら書物を分かつことだ。それら書物と違って小説は頭の中で音読されるべきものだ。速読を誇るものではない。頭のなかで音読する、つまり脳内で模倣することで著者の描いたものに、深く接することのできる媒体だ。効率は人を殺す。人体は人間がつくり上げるものと比べてあまりに効率性にかける。芸術は人間性の贅沢であり効率の概念とは相容れない。人間性は速読でなにかをかいつまんで得られるたぐいのものでは決してない。
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