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評論家の描くものに芸術性はあるかということについて考えていた時があった。その時分はそもそもあまり熱心に評論も読んでいなくて、ただ文庫本の解説とかばかり読んで、評論家というのももったいぶった楽な仕事だと決めつけていた。群像や新潮を購読するようになって数々の長い評論を以前より読み始めると、小説家が小説に向かうであろう没入とはまたちがう熱心さで作品を睨み、自己の批評言語で、いたちごっこのようにあると言われたりないと言われる芸術の本質をとらえようとするのをみるにつけ、僕は批評家の芸術性はその態度にあるように思い始めた。とくに前田英樹による新潮の連載、「批評の魂」においては小林秀雄と正宗白鳥というふたりの批評家を並べてくれるためその感慨を一層強く思うことが出来た。

そんなことがあって読んだ今作の表題作「モオツァルト」はまさにその最たるものだろう。彼が展開するのは彼が暴きだしたモーツァルトの本質ではまったくない。小説家は自分の描きたいものだけを直接書ききることができないために物語を用意するように、小林秀雄は自分の語りたい芸術をモーツァルトという媒体でもって導き出そうとしている。この発見によって、僕は批評家が大好きになった。それまでははっきり言って、人の褌で相撲を取るという言葉そのままの「知恵をつけすぎた読者」という作家でも読者でもない存在だと馬鹿にしていてほんとうに恥ずかしくなった。

しかし評論の中身はおおむね難しすぎてわからなかった。評論の趣旨などはわかるのだが、まことにはずかしいことに、高校から日本を離れてしまっているためぼくは古文や日本の伝統的な諸芸術についての知識が平均以下しかない。このまえ丸谷才一の「日本文学史早わかり」を読んだから西行、実朝、俊成などの和歌はまだわかるし雪舟なども小学生のときに京都国立博物館での雪舟展で見たことがあるためかろうじてその論旨の根拠を探すことができるが、書だとか平家物語とか徒然草とかは読んでいないと難しすぎた。まあでも姿勢は感じられたからおおむね満足な読み終わりだった。
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