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通夜は不思議な行事だと思って調べてみたら一応キリスト教の一部の宗派にもあるようで、夜通し死者へ祈りを捧げたい思いは世界共通なのだと感心した。しかし線香をたきつつ故人のことなどを話しながら宴会をするのは日本ぐらいなんだろうか。いつかテレビ番組で中国にて、一部ではあるが葬式の場で縁起をよくするために麻雀をするというのを聞いたことがある。またそれとともに思い出したのは仲間の骨壷を台にしてとむらいの麻雀をした野坂昭如の「エロ事師」の一幕だった。
葬式に集まった親戚一同がみんな同じ故人とつながっているのは理解しながらも続柄がどのようなものだったかがわからなくなっているのはまさにあるあるだ。
この小説のタイトルは意味を二重に含んでいる。頭に別の副詞をつければわかりやすいだろうが「まだ」死んでいない者と「もう」死んでいない者のふたつだ。
しかしそんな言葉遊びだけでは小説は成り立たない。小説は常に新たな試みが求められる。この小説において読んでいてずっと不明なのは語り手の立ち位置だった。語り手は参加者のほぼすべてを知悉している。死者や葬式をまだ理解できていない年齢の子供が若かりし頃や老後なにを感じたのかが語られる。それなのに、いくつかの人にはこう思っただろうと推測にすぎなかったりする。そして唐突に私が一箇所だけでてきたり、川に尻を付けることとその川自体を延々と描写したり(愛と人生でも美保純の尻が拡大されていたが、尻に特別なこだわりがあるのだろうか)そういった事物を読んでいてぼくがリアルタイムで感じたのは、この作者が作家にとって書くことの自由さとその楽しみを大切にしているということだ。たとえば古川日出男が「女たち三百人の裏切りの書」で野間文芸新人賞を受賞して保坂和志との対談で語ったなかでは、勢いをつきすぎないようにあえて万年筆で書いて下の階に置いたインク壺まで取りに行かなければならないようにしたと言っていた。この受賞はまさにこの作家滝口悠生が「愛と人生」において同時受賞したときのことであり面白い対照だと思う。たとえば高橋弘希や上田岳弘を読んでいても感じるそのリアリズムや再現性よりも作家が自分の物語に没頭しているそのテンションを大切にしている姿勢はとても好ましい。ゼロ年代の作品は少しお行儀がよすぎた。僕はモラリティを単なる社会を円滑に機能させるための装置にすぎないと繰り返しここで主張している。モラールは真実と決してイコールではないし、100%真実でないものに作家が引きずられるべきでもないと思っている。
そう確信させてくれたし次の時代の小説も暗示してくれたようで嬉しい読書体験だった。
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