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フェミニズムの目指すところというか、女性が性別によるしがらみを逃れていくにはいつしか結婚がもつステータスに打ち勝たなければならないのだろう。現在もまだ将来の夢はお嫁さんという、職業でなくステータスを応える子供はいるように思う。
確かにそれもかつてのように、ただ女の働き手が必要だからと結婚をするような時代よりはいくぶんよくなってはいるのだろう。小島信夫の「抱擁家族」で妻の病死後、夢遊病のようにふらふらしながら、女手を手に入れるためにデパートの店員に声をかける主人公のような。
片瀬チヲルのこの中編は、そういった結婚願望の呪縛をテーマにとっている。結婚しなければと27にして焦りだした。主人公は婚活することにきめて、それに伴いブログを開設するのだが、そう簡単にはいかないという話だ。
主人公はかねてより恋愛に憧れていた。というか憧れすぎた。子供が抱く将来はお嫁さんという願望と、商業的なメディアにおいて安易に量産される「信じていれば夢は叶うんだよ」的映画などのせいか、夢への努力を放棄してなおそれが叶うと信じてやまない人が多いが、その思考のため若き日から主人公は中二病を患っている。中二病はみなさんご存知のとおり自分を無根拠に過大評価することから端を発するものだが、彼女も例外ではなかった。自分磨きを捨てた少女漫画ヒロインの真似事をしていれば恋人が自ずとできるとふんで黒歴史を作り上げてしまっていた。大学生のときにすきでもない相手に処女をどぶに捨てて、以来恋人の一人もいないのだが、そこで彼女は手始めに婚活パーティに行くという失態をおかす。
婚活パーティ。悪しき言葉だ。それはお見合いと自由恋愛の中間をつこうとした企画だ。自由恋愛ならば出会い→交際→結婚のプロセスを経るものを、お見合いは面会→社会的契約→結婚のプロセスなのだが、婚活パーティはそのどちらでもない。それぞれのプロセスにおける中間、交際/社会的契約のどちらかを決定しておらず、個々人の感覚にゆだねられている。そこで容易に生じる齟齬のために、彼女の婚活はまったくうまくいかない。
十七の時、彼女は落語家を目指す同級生に惚れていた。彼の落語をもっとききたいという純な恋心だった。双方が奥手であったために上手くいかなかった交際だったが、婚活がまったくうまくいかなかったある日、実家の祖母の危篤を機に二人は再開する。その彼は謎の人の良さでだめだったらもらってやる、またお前は結婚という同性にみせつけられるステータスがほしいだけだと指摘してくる。うっざと思う彼女ではあったが、それを機にささいなことにときめける心を取り戻せたのでしたと一見ハッピーエンドに物語は落としてくる。
実のところ彼女は今になってスタートラインにたっただけにすぎない。言われたい言葉を待つだけの夢小説的な時代を十年かけて克服し、十年前、その前だという落語家志望とできた自分から提供していくことを「自覚しながら」できるようになっただけだ。彼女の前途が明るいようには僕には思えない。それはまさに彼女の目の前に横たわる、女だからお嫁さんになりたいという刷り込み的なジェンダーのためにであり、現代の課題を本作はうきぼりにしたといえよう。
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