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 彼のしばしば扱う暴力、富裕、薬物および性や芸術による恍惚という色のどぎつさで第一印象として浮かび上がりにくいかもしれないが、村上龍という作家の創りだす文章がもつ映像の喚起力は他に類を見ない。特に短編小説にあっては筋書きや物語が抑えられ映像美がより前面へと押し出される。日本の短編小説はさながら散文詩だと言ったのは三島由紀夫だが、村上龍の短編小説は一種の映像詩のような性質を帯びてくる。
 このたび読んだ彼のほぼ最新の短編集だろう「空港にて」は映画や漫画のようにフラッシュバックが多用される。現在見ている画に触発されて過去のことが溢れだしてくるのはマルセル・プルーストが「失われた時を求めて」で菩提樹の茶にプティ・マドレーヌを浸して少年時代をありありと思い出したことを描写して以来知られている現象だ。
 全八篇の小説の主人公たちは少し形態の違う「公園にて」を除いて一様にフラッシュバックによる情操の氾濫によってなかば離人に近いような感覚にとらわれているのか、ほとんど口をきかない。台詞があるとすればそれらはすべてフラッシュバックの中で展開される。過去を想起している主人公たちが現実で対面している状況は過去の持っている鮮やかさと比べれば閉塞感に満ちている。特に一作目の「コンビニにて」では著者本人があとがきで言っているようなことが最もわかりやすく現れているだろう。日本という国の閉塞感。主人公にとってそれが最も凝縮された地点がコンビニだったのだろう。あまりに暗い部屋にいすぎた場合、普段ならなんでもない明るさでも正しく測れはしないように、自分がこれから海外に行くという現在では大したものでもない行為の開放感の予感にめまいを起こしている。どのような無駄な隙間すら許されず、ちょっとでも見つけようなものならそこへ人や商品が詰め込まれる国、日本の異質さがそこに凝縮されている。
 他の小説でも主人公たちはさまざまなものを見て内部に反応を起こし過去を露出させる。出合い系でSM趣味があることを書いて載せているかもしれないママ友。自分が金持ちであることをしきりに見せびらかそうとする男。居酒屋で煙草を吸う女と誰かに叱られる女。クリスマスに誰かといる人々。買った若い女の若さしかない格好。一口の菓子をゆっくりと食いセロハンの包み紙を丁寧に折ってからポイ捨てする初老の女。主人公たちにとってはそれらが自分を窒息させようと包み込んでくるものを象徴しているが、そういった閉塞感の象徴のような人々が目前に表れることで却って主人公はおのれの閉塞感と対峙することができた。彼らの多くはその回想によってより苦しめられるのだが、小説の最後にはわずかながらも自分を包み込む袋の口からわずかに差し込んでくる光をその視界に捉えることに成功する。
 話は大いにそれるが台詞つきで過去を思い出すのは滅多にないことだ。それは小説や映画だから許されていることとも言える。2ちゃんねるやツイッターなりのまとめサイトでそれが事実であると語る人間がすべての会話まで覚えていてそれらを鮮明に記述しているのを見かける。というか最近は本当にそういった作り話くさいものがまとめサイトに溢れきっているようで吐き気がする。フラッシュバックはいつだって一瞬の出来事で小説や映画、漫画などで時間をかけて描かれていても現実にはそれらを人は漠然としたイメージでのみ思い出しているに過ぎないし、その漠然としたイメージの塊はほぼ感情の塊といっても差し支えがないようなものだ。そのため、それを誰かに語ろうとしたとき、頭のなかで行わなければならない作業は一枚の絵を粗いシュレッダーにかけた屑をすべてひとかたまりに丸めたものをほぐして元の絵に戻そうとする作業に近いと思われる。しかし莫大な時間を費やしてもなおその記憶を完全に再現することはできない。そこでたとえばエドヴァルド・ムンクの「叫び」を言葉で説明しようとするときに、ぐにゃぐにゃとした不穏な夕焼けや後方で叫びが聞こえていない様子の二人の人間や耳を覆っている中央の最も目立つ人物など象徴的なものの連結的な羅列でしか答えられない。まとめサイトで自演している人々にはそういう部分をもうちょっと認識してもらいたいものだ。あとツイッターの今日こんな場面に出くわしてすばらしかった!それに比べてこんなツイートしてるワタシみたいな人もだ。
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