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花芯というのは子宮のメタファーだ。
この時代、彼女はまだ晴美であったが、ぼくはこの小説がもう五十年以上も前に書かれたことが信じられない。

ただそこにいるだけで男をたかぶらせるものをもつ主人公園子が女の感情に任せて生き、封建的社会を自らの官能性の観察によって超越する物語だ。

評論家なんてのは融通の利かない女心の対極のような人々だから、彼女がこの中で描き切った見事なほどに鋭い感覚を見極めきれず、「子宮作家」なんていうひどい言葉を思いつけるのだろうか、人は時に自分の処理能力に余るものをラベリングによって片付けることがある。もちろんそれは正しくない。

この小説には様々な女が直面しうるしがらみが描かれている。
まず第一に本人でさえあるかないか、実際に見たこともないのに大切にするよう強制される処女膜、および処女性。
彼女の夫雨宮は、彼女を純な乙女と信じ、愛のことばを語るが現実的な話はしない。
また男子に対するよりもはるかに強い女は親の所有物という感覚。
園子の母親は、父と雨宮の母から父を奪った女であり、嫉妬の総仕上げとして園子を雨宮のもとへ嫁がせるというひどいことをしながら、雨宮の上司、越智に惚れたことを告げる園子を卑しい人間だという。
その子の妹も雨宮に惚れており園子と雨宮の間の子に、性的なかおりのする接吻をするなど、いざこざの末に園子が東京へ逐電してからは雨宮と関係をもつようになったほどだが、園子を母と結託して責める。

女の最大の敵は女だ。
現代においてかつてほど男尊女卑はなくなったというのに、品格などという言葉を使って過去の偏見の方へとどまり自由な女を見下すことで相対的に自分の価値を上げようとする女達が女全体の進出を妨げている。

自分は頭がよくないと考える園子は建前をすて本能をとる。
そのメタファーとして彼女は事物を子宮の感覚によって判断する。
本能的判断による彷徨のすえついに人から娼婦と呼ばれるようになった時、彼女は官能の絶頂による意識の高揚と同時に鋭敏になる子宮の超越的感覚によって死を捉える。
その仮死感覚の中で彼女は自分の内部にゆるぎない真の自分の核を見出す。
それは「悟り」を強く意識させる描写で晴美時代からすでに強く会った仏教観に驚かされた。

女というものは、自分の目でさえ遂に確かめることの出来ない、小さな薄い一枚の膜のため、死ぬまでの貞操を約束させられねばならないのだ。貞操って何だろう。女が財産の一つとして売買された時代の、足枷の名残りではないのだろうか。
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