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彼のことを知ったのは3月くらいで、文芸誌を買い始めてからのことだった。
群像を主に読んでいたから、この作品については書評を先に読んで知ってしまった。
デビュー作の題「惑星」「太陽」という題を見て、こんな気持ちのいい題を付けられる人の小説が面白く無いわけがない。
そう思って読みたいなーと思いつつも金のあまりないぼくは我慢していたんだけど、三島由紀夫賞を受賞したのを新潮で見て、もう我慢できずに買っちゃった。
新潮に乗っている冒頭も読まずに。

あらすじとしては人類の転換期が訪れるころに生をうけ、転生を繰り返し三度目の生を井上として日本に行きている私が、第一の自分である十万年前のクロマニョン人が想像した未来にある通りの理想の恋人そのものである、才色兼備で自己を信じる行動主義者ながら一度堕落したオーストラリア人キャロライン・ホプキンスとの出会いを通して理想の恋人の存在を信じ、彼女に惹かれながら彼女をこの日本にまで導いた人類の旅を予測した末期がん患者高橋陽介に嫉妬しながら彼とキャロラインの世界二周および今後もキャロラインのみ続けるであろう旅行を行った物語を紡いでゆく。

僕はなぜだかあらすじは一文でないと気がすまないから毎度長くなって申し訳ない。
見る人がいないから謝っても仕方がないのだけれど。
あなたがbotでないならご自分の特殊性を世界に誇るべきだ。

この物語の根幹にある人類の旅路がどこまで正確なのかはわからないし小説だからそこまで気にする必要もないんだけれど、なんとなくジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」を思い出した。そしてオーストラリアでの描写に関してはオーストラリアに住んでいるぼくとしてはひっかかるところもあった。オーストラリアにシボレーがマイナーどころではないところとかオーストラリアにはブーランジェリーと冠するパン屋を探す方が難しいしベーカリーに関して言えば彼女の所持金でパンは買えてしまうことや、アボリジニに尊敬を払った呼称への誤解などがあるけれど、そんなのは問題じゃない。現代文学においては実際性写実性などは副次的要素にすぎないし現実の世界を舞台に物語の規模が大きければたいしたことはないのはもう何十年も前にラテンアメリカ文学が教えてくれていたし。
ぼくらが終末感覚に日々さいなまれながら生きているのは自明のことだとぼくは感じている。まるで平安時代のころのように世界の終わりが来ようとしている。池澤夏樹が「楽しい終末」を書いて何十年と過ぎて、なんとも語呂のいい二千年に終わりきれなくてずるずると進歩することの閉塞感を生きている。旅が終わろうとしているのを感じる。その末法思想がこびりついたような感覚をこの小説は鮮やかに、入り込ませる物語のうちにはらませることに成功している。ひとりひとりが優遇されるべき個人でありその優遇されるべき個人群は集団ごとに内部に外部に格差を作り互いに結託しあって世界の状態はもう変わりもしないじゃないかというような顔をしている。それはもう変わりもしないと絶望しながら、どこかで「そうかしら?」と感じている希望がどこかにある感覚、それが「私の恋人」として全存在的に読者へ迫ってくる。
ぼくは長く読む体力がない方なのにもかかわらずここのところ新人作家にはいつだって「この人の長編が読みたい」と思い続けているし、彼もまた同じだ。日本には長編と呼べるほどの小説がほとんどない。

堕ちた女は腐った体液の匂いが充満する秘境で、知性を有する生物に生まれついたことへの呪詛を全身全霊で唱えながら、快楽と苦痛の境界線で朽ちていく。
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