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僕自身、フェミニストだと思っている。
女性に生まれたかったと思う僕は女性の自立には男性にも女性にもまだまだ越えるべきものがあると考えているから、男性だけを目の敵に男女の上下関係をなくすのでなくひっくり返そうとしているようなフェミニストたちにはちょっと辟易している部分もある。
それにくらべると富岡多恵子がこの短編小説集のなかで示している男女差、社会における女性性の押し付け、それに抗う女性、従う女性を淡々と描いている。
また多くのプロレタリア文学がそうであったように政治性が強すぎて芸術性がないがしろにされているなんてこともなく、表題作のほか、「結婚」などはそれ単独で何かしらの短編賞を得られそうなほどだ。
表題作は、ただ関係を誘う男女の関係を逆転させているだけで、淫乱、色情狂扱いして読んでしまう読者の存在を浮き彫りにさせている。
この本が講談社文芸文庫でしか読めないのは残念なことだ。
電子書籍という絶版本救済策が今の時代にはありがたいことにあるのだが、それでも却って玉石混交の混沌にあって、どうにかならないものかしら

わたしはいつも、男の肉体の一部が、まさにするりと自分に入ってしまって、簡単に物理的に結合の恰好になることが、なんとなく滑稽な感じさえ起こさせる。

わたしは、性交によって、肉体によって、相手と自分の肉体のなかの肉体でない部分を知ろうとしている。

快楽の高さも広がりも深まりも、いつかは一定になっているのを、快楽者は気づこうとしない。自己の消滅を肉体に賭け、それでいて、自己がそこから辛うじて這い出してくるのを、肉体が助太刀しているのだ。快楽の中で自己を握りしめ、ついに自己が独裁者となるときには、性交の相手は物体にすぎない。そして、物体の肉体関係に幻滅する。

いってもいわなくてもいいことを、口に出してみるのは、そばに他人ではない人間がいるからであった。
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