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立派な一人前の男が、そんなことで臆病と戦っているのかと思うと、彼女は柚木が人のよい大きい家畜のように可愛ゆく思えて来た。岡本かの子「老妓抄」

これは一見、二律背反のようだが、女性には、いや気づかないだけで男性にも、好意を抱いている異性に対してこのような優越をえることがある。
私なんてどこがいいの、というのは恋愛ごっこ好きなかまってちゃんの台詞だけど、この「私なんか」の思考が二律背反へと導いているといっていい。

私なんてどこがいいのと思いながら、私なんかを好きになっていやがるという気持ちがぶつかり合うと、相手を可愛く思う気持ちが生まれて、抱擁的な笑顔があらわれる。その気持ちを大事にとったまま、「私だぞ」という自信が生まれて来るともう本当の二律背反のゆらぎとなって、いわゆるギャップと呼ばれる惚れる要素は、このゆらぎである。
思っても見なかった一面のゆらぎによってひらりと見えたそのさまに人は惹かれるのだろう。そこへ引っ張られるのだろう。

ゆらぎと対立する魅力は一途さである。

僕は一途という言葉が嫌いだ。一途なのは子供だけで充分で、大人になっても一途なのは単なる馬鹿でしかない。馬鹿だから一途なまま大人になったとも言える。子供の頃からずっと真面目に何かに一途であったなら、その一途なものに対して様々に研究していたのなら、人は何にでも哲学を見いだせるものなのだから、いつしか複雑なゆらいだ面を持つ大人になってしかるべきなのだ。

しかしどうして男はこうも臆病なのか、ごきぶりをためらいなく手で握りつぶしてその手のひらを白いごきぶりの油でねとねとにできる僕でも、ごきぶり以下の虫に悲鳴をあげるような女に誘いの文句を切り出すのに何十分もの躊躇が必要とする。なぜだか男は女を誘惑してそれに失敗すると、世間体などの漠然としたなにかが、壊れてしまうんじゃないかと怯えている。女が外見的な恥に弱いのに対して男は内面的な恥に弱い。

その結果、最悪の状況ばかりを想像しながら真剣すぎる目で慎重に言葉を紡いで行く男を、女は私なんかにこんな緊張してかわいいと思いながら自信を増して行く。
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