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貞操ほど信じられないものはない。公衆衛生的観点からあまり見境のないことは望ましくない程度で、誰が誰とどれほどやっていようとかまわないことだ。貞操は愛情になんら影響を与えない。結婚するまでセックスをしないという女は真に愛している人のためだけに保っているわけではなくて、ただ自分を大切にしているだけにすぎない。処女じゃなくても美人なら誰だってかまわないものだ。美女の範疇から外れた人だけがなんとか自分の価値を高めようと付加した要素に過ぎない。大した要素ではないからなんとかさもすごいことに見せかけなければならないので、処女でない人を見下そうとする。ネガティブキャンペーンを自らのマーケティングのコンセプトとした人々は男女の平等がどれほど叫ばれようといなくならない。男も女も、男はこうあるべき、女はこうあるべきという決めつけから自由になって愛し合えることもジェンダーフリーへの重要な一歩だが、結婚するまでしないなんていう、聖書にすらもともとそうあるべきとも書いてなかったようなことを重要視する女たちはいなくならない。そういう建前がないと男にもがっつきがいがなくなってしまって自分の商品価値があげられなくなるので既得権益が脅かされてしまう。
男はなぜしばしば女のことで頭がいっぱいになるのか、それは女が建前のもと、厳密な選考のすえにしか男と交わらないものと見せかけているからだ。そう考える人がいるのはいいが、風潮自体は打ち破られなければならない。しかしそのためには権威主義自体を打破する必要が出てくる。なぜなら処女自慢は学歴自慢と大差なく、しかもこの二つの鼻持ちならない連中はとても相性がいい。婚前交渉なしに結婚した夫婦は写真うつりの悪さに定評があるだろう。念のために行っておくが、もちろん婚前交渉している夫婦にだって目も当てられない人々はいる。
ぼくはおとなになってはじめて東京へ行ったとき、首都であるこの街にはきっときれいな人だらけなんだろうなとうきうきしていったが、なんのこともなくスクランブル交差点にあふれる人々はつまらない様子の人々ばかりでがっかりした。ぼくはかわいいものや形のいいもの、いい彩りのものが大好きだった。ものすごくかわいくて気が合う人だったら男でも女でも別にこだわらない。男は汗臭いことが多いから割りと少なくなるだけだ。こだわらないけど、こだわらないことを悪く思う人も多いから、よく隠す。以前の恋人には自分が関わった人数は半分しか告げていなかったが、それでも多くてふしだらだと見下された。それはそうと、ぼくはだから道を歩いていて色々眺め回す。形のいいものかわいいものいい彩りのものが見たくて。すれ違うひとの顔も身体もすべて男女問わず全部みて、それが綺麗だとおもうとついそっちのほうまでふらふらと行ってしまうときもある。
眠くなったからもう何を言いたいのかあやふやになってきたが、とにかく、ぼくにとって貞操はいささか古くて洗われてなくて臭い迷惑な代物だということだ。
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日本にいてもオーストラリアにいても学校にあって僕はいつだっていじめを見てきたし自身いじめを受けた経験がある。いじめはなくなるものではないことを多くの人が察知していながらそれを仕方のないものと受け止めている。そしていじめは人が大人になればなくなるものでもない。大学の薬学部生だった女性が同じバイト先のギャルっぽい子を外見から知性が劣るだろうと明らかに見下す発言をしたのを聞いた。それはさも当たり前かのような口調だった。見下す側はいつだって見下すなりの理由がある相手が悪いと信じているから、いじめられるほうが悪いというような暴論が生まれる。よし自らいじめられる原因を生み出してしまう人間がいても、原因があるからといっていじめていいわけではない。一度見下し始めると、見下し続けるうち次第に見下していた原因が消失し、対象を「見下されるべきだから見下している」ようになる。いじめが発生しないのは嫌悪される対象がする側よりも上にある場合だけだ。それらは愚痴という形をとるようになるだけで、潜在しているものではあるのだが。ただ上にちょうどいい愚痴の対象がない場合、対等の集団のなかでほかも気に食わなく思っているだろうとされる対象をひとつ選んで下に置くことで、集団全体のガス抜きを図った結果であることを僕はしばしば見かけた。三国志において曹操が食料担当が盗み食いしていたことにして首をはねて飢えていた兵士の不満をそらさせたことはこの傾向を巧みに扱った例だろう。
大人でもする行為だから子供がしても多めにみるべきというような風潮が僕には理解できない。大人がしてよくて子供がしてはいけないことなどたくさんあるのになぜ犯罪だけは許されるのだろう。得てして子供の犯罪はだれも責任をとらない。酒だの煙草だの娯楽的なものばかり関わった大人が責任を取らされるのに。しかしよく考えてみればいじめに関しては大人も責任をとっていない。いじめが発覚した場合学校はそれを知らなかったことにしようとする。知らなければ済む話でもないと思うのだが。囚人同士が殺し合っても知らん顔する看守と同じように感じる。それが正しい物事の形だとは思えない。
いじめを筆頭に未成年の犯罪を防ぐ最良の方法は子供の犯罪に保護者が当事者のように罰せられるようになることかもしれないが、そんなことになれば人はますます子供を産みたがらず少子化は一段と加速するだろう。どうしたらいいか。最近流行りの父権主義的なやりかたがいいんじゃないだろうか。インフォームド・コンセントだ。先にいじめが引き起こすだろう結果を子供に教えればいい。いじめが発覚した場合、いじめの深度によってそれが周囲に知らされあなたは親、担任、学年主任、生徒指導主事、教頭からそれぞれうんざりするほど長く追求され内申点に著しい影響を受け、親はたとえ謝罪しようと村八分的扱いを受け、引っ越しを余儀なくされることもしばしばあり、またその引越し先でもまた噂が広まり肩の狭い思いをすることになりうるが多くの場合いじめの被害者以外はいじめがあったことを忘れており、いじめの被害者は逆に参加しないことも多いため同窓会は気分良く過ごせますでしょう、みたいな感じで。

離婚と別居にはかなりの差がある。基本的に離婚はどちらかが負けていて、別居はどちらも負けているかの違いだ。別居がその状態に落ち着いて長年そのまま続くようなことが往々にして起こるのはどちらも負けているために、こだわる理由がお互いとは違うところに移ってしまっているからだ。ぼくの両親は7500キロも隔てあっていてこれぐらいの距離がちょうどいいと言うしスカイプをたまにすれば口喧嘩が絶えない。僕や妹が彼らのこだわりであることは想像に難くない。僕は自分自身の未来など全く予想もできないが結婚もしてみたいし離婚もしてみたいと思う。人生何事も経験であるしそのようになろうとしている事柄に対して僕はなにかしら演じたくなってしまう。状況如何で離婚が自分を劇的に映してくれるなら僕はそうしてしまうようなところがある。僕は数年続いた恋を最近終わらされたところだが、この恋の後半僕はずっと彼女を恨んでいたことをいまになって認められるようになった。恨んでいたから僕は彼女に尽くして彼女を抱いて愛の言葉を口にしていた。実のところぼくは自分の友人以外愛してなどいない。しかしその恨みを隠してなお彼女を生涯愛してやろうと考えていた。僕に似た美しい子供を産んで自分はずっと愛されていたと幸せに死なせてやってそのおめでたさを誰にも言わずに笑っておこうと思ったが残念ながら感づかれてしまった。それからもしばらく泣き落としにかかったがうまくいかなかった。僕とはもう結婚しない以上彼女は醜い子を産むだろうからどのみち僕は満足だ。美醜は永遠になくならない差別だ。多岐にわたる美の定義のうちに効率の良さが洗練と捉えられそれがデザインと呼ばれて産業に影響を与え続けるかぎりどうやっても人はこれを否定できない。痩せてる女性を美しいとするなと運動している人々がいるが彼らの運動は理想通りに結実する日はこないだろう。太っていることが非効率である以上、効率性の頂点である鍛えられた健康体を超えられない。
カフェを経営していたとき自らの子に依存しすぎた母親が子供のレベルにまで下がるのを見ることがしばしばあった。それはただ子供に対して幼稚語を使うとかそういうことではなく、依存しすぎているために依存対象が喜ぶものに自らも喜ぶようになるということだ。我が子が笑顔になるのを喜んでいるうちにその子が笑う対象が自分にとってもすばらしく感じるようになって、我が子が嫌うものを自らも嫌うようになる親はたくさんいた。このブログのトップはPCで見るとなかなか趣味の悪い画像が現れる。これは僕が十七歳のときに描いた絵を元にしているが、元々は任天堂のどうぶつの森シリーズに登場する「あやしいネコ」というのっぺらぼうの猫を見た印象だ。依存対象が変わると嗜好が容易に変わる人間は多々いる。中学のときにこのキャラクターに出会ったとき僕自身もその一人であることに気付かされた。それから「こだわりをもたなければ」という焦りに支配された数年間を過ごすことになったが、結果的に吉なのかはわからない。僕は少し人に嫌われやすくなった気がする。
ウディ・アレンの名作「アニー・ホール」の中に以下の台詞がある「A relationship, I think, is like a shark. You know? It has to constantly move forward or it dies. And I think what we got on our hands is a dead shark」
恒久的な人間関係などありえないと、多くの智者たちは知っていた。唐詩選のなかの「人生即別離」を知らなくたって、中島みゆきの歌さえ聞けば「別れはいつもついてくる幸せのうしろをついてくる」ことをすぐに了解できるだろう。
通過点のような出会いがある。一定の期間にのみやけに親しんだのちふっと会わなくなってそれっきりのような、そんな人間関係が人生のなかには時々あるものだ。そしてそれが最も意味を持つのは青春時代なんだろう。
よくできた青春小説は、「恥が後にいい思い出になる」という青春特有の性質に多分に依存していることが多いため、たとえそれが傑作だったとしても二度読むことが辛いときがある。けれどもこの作品にあっては違う。何度読み返して立ち返っても平気な気の抜けたユーモアに全体がくるまれているために全く年齢の気負いなく読める点においてこの作品はすばらしい。
青春は前述の性質だけでなく、同時に共感の欠如による攻撃性を持ってもいる。無知で無根拠ながら物事を知った顔で人を傷つける。物事を知っているなら上手な傷つき方も知っているはずだが、ただそのように見せかけているだけなので、信頼した人に見捨てられると答えもわからず混乱する。
ぼくはもう少しで青春という言葉でなにかを片付けられなくなる年齢になろうとしている。25になるわけだが、人は僕のこの言いをふざけたことと思うだろう。現代社会はなぜこうも早熟することを強いるのか。若い人間が余裕なく努力し続けなければ人生が大変なことになってしまうのだという社会全体の強迫観念が今後弱まることはないだろう。僕は身近な大切な人々が合理性や安定を理由に自己を矮小させるところを何度も見てきた。そのたびに悲しくなった。先のウディ・アレンの言葉にあるように死んだ魚を無理矢理に動かさせるような人間関係を求めるのがいまの合理主義的な人々のつながりだ。そこには当然無理があり、無理があるなら当然痛みが伴う。僕は文学バカだから、合理性とは対極にある。彼らから見て人生の無駄でしかないものにばかり価値を見出すから彼らに呆れられ捨てられるのは当然のことだ。だがどれだけ愛して信じていた人間に捨てられても僕は人生の無駄から眼をそむけられない。愛情はその対象の非効率性の許容から生まれるからだ。そうしたところで仕事に行ってしまった飼い主は帰ってこないのに扉を爪で掻きつづける犬を愛くるしく思えるのも同じだ。
しかし死んだ魚に無理やり電極を突き刺してぴくぴくと動かしているような現在の人間のつながり方はシンギュラリティの達成まで終わることはないのかもしれない。青春が終わる瞬間は人間関係に打算を見つける瞬間かもしれないが、もしそうだとしたら僕よりも若い世代の人間はもっと早急な青春の終わりを与えられることになるのだろう。
はじめてサルトルの嘔吐を読んだとき、よくわからなかった。すべての物がまさにまぎれもなく物であることになぜそこまでの吐き気を感じられるのか、ただ実存主義という言葉のかっこいい響きだけでこの本を手に取った僕はその思想を1%も理解していなかったと思う。今できているのかもまた怪しいが、少なくとも短編集はその感覚を知らせてくれる。ともかく実存主義者からすればそうでない人間はあまりに自分の人生を仰々しく考えすぎる。多くの場合人は自らを幸せになるべきものと仮定する。しかしその仮定の通りに現実がまったくそぐわないため、彼らはいま世界に在ることに不満を抱く。
人は進んで他有化されようとしているのではないかと思う瞬間がある。たとえば東京の一部上場企業などに就職して華々しくも多忙に東京を生きる自らに思いを馳せる田舎の人間は明らかに自分がどのように他人から、いや他人というよりももっと茫漠とした、「世間」に近いカメラの眼から映る姿がどれほど自らの理想にしっくりとしているかに固執しているように僕には見えてならない。その理想のとおりに映ること、それはまさに60億の有象無象のなかで自分が社会的にこの世に意義をもって存在しているのだという社会的保証を与えられることだからなのかもしれない。また同時に自分たちを現在進行系の存在だと思わせてくれる最大の要素、衣食住や性的なものに対する欲求が、自分たちをあまりに死というそれら欲求の不在に思い及ばないということもあるのだろう。だがそれらすべてを仮に失ったとき、職を失い病を患い金が底をつき人々が去っていったときそれでもなお自分たちに残るこの世界に確固たるものはなにかと考えた時、それは果たして苦しんでいる今の自分だ。
華々しい生活を夢見るぼくらは惨めな生活をときに死そのものと同等かのように話の俎上にのせる時がある。見るほども価値がなくなること、他有化されなくなること、それを生きながらの死と見るなら、僕はそこにこそ人の存在の自由があると思う。まさに存在することの不快感こそが絶え間なく存在し続けること自体の証明であり許可証だろう
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