純粋な愛を想像するとどうして人は笑ってしまうのでしょうか。やはりみんなそんなものはありえないのだと思っているからなのかもしれません。しかし日本のポップソングの歌詞に氾濫する愛の言葉の数々はどうしてそれを信じてもいない人々の口を伝っていくのでしょうか。日本人は自らの国民性を謙虚だと第一に挙げる方々が多いように思いますが、内心では自らこそが主人公、物語の中心だと信じている人がとても多いのではないでしょうか。

それを妨げる謙虚さを感じながらも投げ捨てる燃料へ変えてしまったのがこの作品だと僕は感じました。年を重ねるごとにどきどきする恋愛はできなくなるものです。高校生のころ初めて心を込めたキスをしたときの身の震えはその後のどんなキスもセックスも再現できないものなのは皆さんもご存知でしょう。僕らは大人になって恥ずべき理由を失ってもっと軽い決心で付き合えるようになります、条件ばかりが厳しくなりながら。若いころは条件など些細なことでよくて、決心こそが難しかったのに。

<あらすじ>すれた中年テレビ制作会社社長今井郷は仕事の縁で石川県は白山のふもと鶴来町を訪れました。彼はまだかけだしのディレクターだったころお世話になった刃物屋が懐かしくなったのです。そこで彼はその今は呆けた病んだ刀匠、の娘千桐と再会します。そして彼女に案内を頼み、かつて撮影したときから変わらないうねりにうねった杉の樹を二人してみるのです。そのころ学生だった彼女はその樹にセーラー服で座り、郷はその姿を撮影し、思い出は今の彼女と鮮やかに重なるのでした。お金がなく父を入院させる金も、金のために働く時間もない彼女に、彼は金を工面するから抱かせてくれと頼んだのです。戸惑う千桐でしたが、彼の娼婦になると決めるのです。そうして理由をつけて東京から彼女を抱きに来た郷、貧乏ながら貧乏を気にしたことのないような彼女、久々のセックスであっという間にオーガズムへ達してしまった彼女へ彼は溺れていくのです。出戻りのときに連れてきた娘のことも忘れ、郷も自らの家庭を忘れ二十台前半の無垢な恋人のようにつながっていきます。のちに彼は自分のやぶれかぶれな人生の形を変えずに、癌を治療せず千桐のもとへ通い続けて死にます。月日は流れ、千桐の娘が婚約するころになって彼女はもう呆けて誰も彼女のつぶやきを理解しませんが、彼女はずっとあの透光の樹のそばで思い出に浸っているのでした。

恋人が死んでなお、その記憶を胸に温めながら生きる作品といえば、僕だけでなく多くの人が春琴抄を思い浮かべるのではないでしょうか。僕はあれを読むたび泣いてしまいます。ですので飛行機に乗るときはいつも持ち込むようにしています。薄いですし、ちょうど目が空調で乾いてくる頃に泣けて便利です。
この作品においては男女の立場が逆です。女のほうが美しいのは変わりませんが、男が金銭面で関係を維持し、女が明確に愛を誓う。男が先に死にたえ、女が追憶に浸るのです。

愛はハンマー投げと果たして同じなのでしょうか、軽すぎてもうまくは飛ばず、相応の重荷がなければ、重荷にふさわしいコミットメントがあればどこまでも飛んでいくものなのでしょうか。またも関係ない話ですが、愛と飛距離を合わせると、僕はいつも映画「キャシャーン」のラストを思い出します。あのラスト以外なにも思い出せないのですが、あのシーンのために映画を作ったように感じたのを覚えています。

中年が確かな愛を投げ込むのに必要な決心は若い人とはくらべものになりません。ですので簡単にできてしまい深刻になる余地のない若者の不倫と比べると題材にしやすいのでそこらじゅうのドラマにあふれています、陳腐になってしまうほど。この小説はその陳腐になりそうなラインをぎりぎりで回避しているのです。大人らしさを双方が忘れることによって。不倫それ自体がみっともないことなのに世の中の不倫家は見栄っ張りのかっこつけばかりでステレオタイプになっています。しかし、郷と千桐の恋愛はまるで学生の恋愛、鶴来町という静かな土地が世界の中心になるような濃縮された大恋愛になっていたのです。

読み終えて、恋愛はしたくないなと思いました。
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共感性羞恥という言葉を最近よく聞くようになった。たとえば映画のなかで主人公やほかの登場人物が公に辱められるシーンで、そのひとに自らを無意識のうちに投影してしまい、その後すぐに辱められることがわかっているだけに、もう避けようもないところにいたたまれなくなってしまうことだ。僕自身そういうところがある。主人公がこうむる肉体的な痛みは見ていていっこうに平気なのに精神的恥辱は見ることが、たとえそれが物語の筋のうえでどうしても必要なものだとわかっていてもつらくなる。
物語のなかにモラルを超越した暴君が現れることがある。映画「ギャングオブニューヨーク」におけるダニエルデイルイスのような人物を見たとき、受動的で共感性の強い人間は自分がその場にいたらどのようにしてこのモラルを超越して自己利益のためや時に気分で他者に危害を加えうる人にどのようにすれば上手に気に入られるかと考える。その状況にかかわって起きうる最悪のシナリオをどのように自分なら回避できるかを考える。
このギドモーパッサンの名作のようなすばらしい短編には、えてして回避しようのないどうしようもなく自らの良心だけが痛む結末が控えている。
特殊な、常識だけでは打破できない状況に多人数が巻き込まれたとき、全員はそのうちの誰かがその常識を破ってそれを切り開いてくれるのを期待する。その期待は、いまだ満たされていない時間が延びればのびるほど自分が本来その範囲内にとどまっている気でいるはずの常識や良心の範疇を優に超えてほぼ強制的になってくる。しかし、ひとたびその状況が、打破するポテンシャルを持った人物による常識を破るほうほうによって打破されたとなるや、期待するだけの人々は我先に元の常識の世界へ立ち返って常識破りの行為の如何を遡及的に問いはじめる。
共感性羞恥は一見そのひとがとても心優しい人物であるから引き起こすいたいけでかわいそうな症状のようにとらえられるが、実のところその真逆だ。その状況に対して五感を閉鎖し無視を決め込んでひたすらだれかによる打破を期待する、あらゆる社会の状況にたいして帰属意識を持とうとしない人間が、逃げられない状況に苦しんで甘えているにすぎない。
ぼくらの世代は戦争はよくないからよくないのだと教えられてきたような世代だ。そこにはあまり理屈を込めて教わったような記憶がない。教育に政治が入り込むことは本当にうっとうしいこと極まりないが、日本人が戦争の加害者でありそれと同時に被害者でもあることと、それがあったという事実だけは歴史として無視するべきことではない。しかし大事なのはやはりそのどちらでもあったということだ。
相互補完的な感情論になってしまうかもしれないが、僕は死刑賛成と戦争なにかしら近いものを感じてしまう。ある一人の人間Aが自らの利益を優先して、その結果としてもう一人の人間Bが死ぬこと(例えば餓死すること)になるとする。Aはまたそれを知っていながら自らの欲求を満たした場合Aの罪はどれほど重いのか。またその死を回避しようとして倫理に悖る行為すらしたとしてBの罪もまたどれほど重いのか。
戦争は多くの場合そのように発生している。規模の問題なんじゃないかと思っている。
村上春樹の小説は日本のほかの小説とは明らかに違うし、その相違はのちのフォロワー的に見えるひとびととも違うようにみえる。それは他者との距離だ。物語において主人公やその人にとても近い人間いがいが自らのもつ小さな物語を話す。その人物がたとえ完全に他者であった場合多くの日本の小説は他者としての距離を保ったままその話を聞くが、村上春樹の場合は完全にはいりこむ。しかしその距離感は決して映画や漫画、アニメにあるような完全にその人の内部へ移行しての回想ではない。物語をはなすその人と物語をきく主人公の自分そのどちらにも同じ距離で接近して矛盾させることなく物語全体をその先へとすすめていく。そこに村上春樹の長編小説の比べようのない魅力がある。
これは一種の矛盾だ。しかし矛盾を矛盾とみとめないまま無理やりに創作をすすめることにこそ魅力が生まれる。ときに日本の小説は円滑なながれ、理詰めにおいての矛盾や破綻について極端にきにしすぎるところがある。もっとも最近は矛盾が抱える魅力を自分のものにしている作家も増えているけれど。
貞操ほど信じられないものはない。公衆衛生的観点からあまり見境のないことは望ましくない程度で、誰が誰とどれほどやっていようとかまわないことだ。貞操は愛情になんら影響を与えない。結婚するまでセックスをしないという女は真に愛している人のためだけに保っているわけではなくて、ただ自分を大切にしているだけにすぎない。処女じゃなくても美人なら誰だってかまわないものだ。美女の範疇から外れた人だけがなんとか自分の価値を高めようと付加した要素に過ぎない。大した要素ではないからなんとかさもすごいことに見せかけなければならないので、処女でない人を見下そうとする。ネガティブキャンペーンを自らのマーケティングのコンセプトとした人々は男女の平等がどれほど叫ばれようといなくならない。男も女も、男はこうあるべき、女はこうあるべきという決めつけから自由になって愛し合えることもジェンダーフリーへの重要な一歩だが、結婚するまでしないなんていう、聖書にすらもともとそうあるべきとも書いてなかったようなことを重要視する女たちはいなくならない。そういう建前がないと男にもがっつきがいがなくなってしまって自分の商品価値があげられなくなるので既得権益が脅かされてしまう。
男はなぜしばしば女のことで頭がいっぱいになるのか、それは女が建前のもと、厳密な選考のすえにしか男と交わらないものと見せかけているからだ。そう考える人がいるのはいいが、風潮自体は打ち破られなければならない。しかしそのためには権威主義自体を打破する必要が出てくる。なぜなら処女自慢は学歴自慢と大差なく、しかもこの二つの鼻持ちならない連中はとても相性がいい。婚前交渉なしに結婚した夫婦は写真うつりの悪さに定評があるだろう。念のために行っておくが、もちろん婚前交渉している夫婦にだって目も当てられない人々はいる。
ぼくはおとなになってはじめて東京へ行ったとき、首都であるこの街にはきっときれいな人だらけなんだろうなとうきうきしていったが、なんのこともなくスクランブル交差点にあふれる人々はつまらない様子の人々ばかりでがっかりした。ぼくはかわいいものや形のいいもの、いい彩りのものが大好きだった。ものすごくかわいくて気が合う人だったら男でも女でも別にこだわらない。男は汗臭いことが多いから割りと少なくなるだけだ。こだわらないけど、こだわらないことを悪く思う人も多いから、よく隠す。以前の恋人には自分が関わった人数は半分しか告げていなかったが、それでも多くてふしだらだと見下された。それはそうと、ぼくはだから道を歩いていて色々眺め回す。形のいいものかわいいものいい彩りのものが見たくて。すれ違うひとの顔も身体もすべて男女問わず全部みて、それが綺麗だとおもうとついそっちのほうまでふらふらと行ってしまうときもある。
眠くなったからもう何を言いたいのかあやふやになってきたが、とにかく、ぼくにとって貞操はいささか古くて洗われてなくて臭い迷惑な代物だということだ。

日本にいてもオーストラリアにいても学校にあって僕はいつだっていじめを見てきたし自身いじめを受けた経験がある。いじめはなくなるものではないことを多くの人が察知していながらそれを仕方のないものと受け止めている。そしていじめは人が大人になればなくなるものでもない。大学の薬学部生だった女性が同じバイト先のギャルっぽい子を外見から知性が劣るだろうと明らかに見下す発言をしたのを聞いた。それはさも当たり前かのような口調だった。見下す側はいつだって見下すなりの理由がある相手が悪いと信じているから、いじめられるほうが悪いというような暴論が生まれる。よし自らいじめられる原因を生み出してしまう人間がいても、原因があるからといっていじめていいわけではない。一度見下し始めると、見下し続けるうち次第に見下していた原因が消失し、対象を「見下されるべきだから見下している」ようになる。いじめが発生しないのは嫌悪される対象がする側よりも上にある場合だけだ。それらは愚痴という形をとるようになるだけで、潜在しているものではあるのだが。ただ上にちょうどいい愚痴の対象がない場合、対等の集団のなかでほかも気に食わなく思っているだろうとされる対象をひとつ選んで下に置くことで、集団全体のガス抜きを図った結果であることを僕はしばしば見かけた。三国志において曹操が食料担当が盗み食いしていたことにして首をはねて飢えていた兵士の不満をそらさせたことはこの傾向を巧みに扱った例だろう。
大人でもする行為だから子供がしても多めにみるべきというような風潮が僕には理解できない。大人がしてよくて子供がしてはいけないことなどたくさんあるのになぜ犯罪だけは許されるのだろう。得てして子供の犯罪はだれも責任をとらない。酒だの煙草だの娯楽的なものばかり関わった大人が責任を取らされるのに。しかしよく考えてみればいじめに関しては大人も責任をとっていない。いじめが発覚した場合学校はそれを知らなかったことにしようとする。知らなければ済む話でもないと思うのだが。囚人同士が殺し合っても知らん顔する看守と同じように感じる。それが正しい物事の形だとは思えない。
いじめを筆頭に未成年の犯罪を防ぐ最良の方法は子供の犯罪に保護者が当事者のように罰せられるようになることかもしれないが、そんなことになれば人はますます子供を産みたがらず少子化は一段と加速するだろう。どうしたらいいか。最近流行りの父権主義的なやりかたがいいんじゃないだろうか。インフォームド・コンセントだ。先にいじめが引き起こすだろう結果を子供に教えればいい。いじめが発覚した場合、いじめの深度によってそれが周囲に知らされあなたは親、担任、学年主任、生徒指導主事、教頭からそれぞれうんざりするほど長く追求され内申点に著しい影響を受け、親はたとえ謝罪しようと村八分的扱いを受け、引っ越しを余儀なくされることもしばしばあり、またその引越し先でもまた噂が広まり肩の狭い思いをすることになりうるが多くの場合いじめの被害者以外はいじめがあったことを忘れており、いじめの被害者は逆に参加しないことも多いため同窓会は気分良く過ごせますでしょう、みたいな感じで。