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僕は過去から現在まで一貫して男女の平等があるべき形だと思ってきたし、同時に男はこうあるべき、女性はこうあるべきといったジェンダーの強制や、それとは逆に自己利益のためにジェンダーを都合の良い時にだけ用いる人々を軽蔑してきた。僕は自分のなかに男性と女性の両方が存在していることを長らく感じてきたからだ。そして、告白すると僕自身もそのジェンダーにめくらましをされていたことも長らくあった。恋愛において僕は常に彼氏はこうあるべきという恋人の要求に翻弄されてきた。しかしそれは僕の自然を否定することでもあったことに気づいたのは実のところつい最近のことだ。僕は自分自身が美しいと感じるものに対して愛情を覚える。ナルシズムから発するものだとは思うが自分の魅力を男らしさにあるとは到底思えないし、女性を抱くときの興奮は女体の形とその人の人格を綺麗だと思うからだ。却って男性にはその顔と人格を綺麗だと思う。
けれどもそれは指標的なものに過ぎないし、多くのジェンダーの内側にいる女性たちのように美しくて素晴らしい人格の持ち主でしかも資産的に恵まれている人に求められて、ありのままのあなたとただ居たいなんて言われたら言うこともなくついていく僕なのです。
世の中、人間の愛情のあり方からみれば先に求めたほうが圧倒的に不利で、求める側へただそれだけの理由で立たされてしまう。僕はその不利を乗り越えられるほどの資産に恵まれていないので、求める側に立つ気はさらさらないい。潮騒の甘美な物語の求める側の気持ちはかつて男はこうあるべきだとアルファな女性たちに苦しめられてきた自分を思い出して苦しくさせられる。三島由紀夫自身もこれは死ぬべき哀愁の物語として描いている。このような恋愛はもうありえない。求める側と求められたい側の戦いの時代がこれからしばらく続く。専業主婦の否定と専業主夫の受容は同時に行われて、ジェンダーの内側にいる女性にとって辛い時代になるだろう。
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自分の長時間の努力が全くの徒労だったことを知ったときほど自分が何のために存在しているのかとぐったりしてしまうことは他にないし、自分の虚栄を人に見透かされてしまったときほど自らの人生そのものを大きな徒労のように感じる瞬間も他にないだろう。こんな仕事つまらない徒労だと思いながらアルバイトをする学生はたくさんいるが、金が帰ってくるぶんだけ徒労よりは遠い。本当にあったのかは知らないが、ナチスが拷問としてひたすら土を掘らせてまた穴を埋めるのを繰り返させるというのがあるが、これももしそれに対価として金が支払われたならなんの徒労にもならない。しかし、これを捕虜にさせるとしたらそれを監督する人もなかなか大変そうに思える。ドイツ人への勝手な偏見になるが、生真面目なせいで離れたところで新聞でも読んで怠けてたらしばきにいくようなくつろぎはできなさそうだ。そういうことはアメリカ人のほうがやっているイメージが浮かびやすい。
しかし徒労が必ずしも無意味なことと思えない。子供のころは勉強よりも徒労のほうがはるかに魅力的に感じられる。部屋の電灯からぶら下がった紐の先を殴ってその跳ね返りを避け続けたり、自転車で校区を一周したり、トレーディングカードの架空の一枚を念入りに作ったり、消しカスからひたすら練り消しを作ったり、これらは確かに何一つ建設的ではないがひとりひとりの多様性を伸ばす最高の乱数のように思えるときがある。はっきりいってこんなブログは徒労でしかない。誰も見ていないしアクセスログがたまに伸びていると、まさに人に徒労を強いたようで申し訳なくなる。人が自分の思っていることをありのままに叫べる場所がありすぎるのも却って問題だ。ここは僕しか書き込めないしコメントもできないしおさわり厳禁でオナニーを見せつける昔ながらの風俗だ。マイナーな小説の題で検索するような暇人しかそもそもやってこない。僕のマスターベイションを見て映画デニッシュガールのリリーみたいに何かの参考にしてくれる人がいたら却って関心するくらいだ。日本だとツイッターみたいな終わりかけのSNSで公共の場でありながらありのままに叫べると思い込んで汁を飛ばしあっているから驚く。SNS疲れはこれからも増えていって、半匿名SNSがこれからの主流になっていくと思う。虚栄を垂れ流す人はいなくならないだろうけど。
アニメーション映画はずっとむかしの作品ではあるのだが、見たのは比較的最近のことで一年前のことだった。そのとき付き合っていた女性とふたりベッドに横になりながら見ていた。雷が落ちるほどに大きな雨が降っていた。彼女は覚えていないだろう。おそらくそのあとにセックスをしたことも。しかし、いったい誰がむしろそれを覚えていられるだろう? この女性よりもまえに付き合っていた女性と別れたときもそうだったが、恋というつながりの糸が切れると途端に相手の思い出が消えていく。顔を忘れ、肌の匂いを忘れ、どこへ行ったかさえきっかけがなければ思い出せなくなって、あれだけ愛したはずの彼女の裸体すらいままでの他の女たちすべてと重なってどれがどれだったか判然としなくなってくる。そうしたうえで最後に残る彼女にまつわるものは残像のような人格だけになってしまう。これほどの消失は他にないんじゃないだろうか。友人たちは何年と会わなくとも、顔も声もあらゆるものがそのままに保存されて次にあったときに瞬時に整合性を確かめつつ同期されるというのに、ぼくは一つ前の彼女と久々に再会したとき話す言葉を何一つ見つけられなかった。それは僕が知っていた人物と似た人格を持つ全くの誰かでしかなく、脛にうまれつきある大きな痣だけ毛の伸びが早く夕方にはもう産毛が伸びているのを同一人物の証拠として認められただけだった。
女性が社会的に進出することにおいて女性性および男性性の偏見が取り除かれる必要があることを誰しもが認めていながらもそれは容易に進まない。この「美女と野獣」が公開されるまえに、自らフェミニストであるというエマ・ワトソンが物語に自分の価値観に基づいて進言をしたと聞いて期待していたが、すこし男性の同性愛的(しかも娯楽的に脚色された)描写が追加されただけだった。そもそもベルはまったくもって先進的でもないし、親を大切にしているだけで、読書好きといっても詩や恋愛物語が好きなだけで、結局のところ理想の王子様と結婚して幸せになりたいという従来のプリンセス像から離れておらず、フローズンのほうが遥かによかった。僕は自分の元カノがこの作品を見て感動するのがわかる。消えかかった彼女の残像から察することができる。プリンセスもののディズニー映画に感動する女性がいるかぎり男女の平等など来ないのではないかと思ってしまう。特に今は長い過渡期にある。差別はまず差別とすら捉えられず常識のうちにあり上辺は平和だ。差別が訴えられ始めてもはじめは大麻合法化を訴える人々を見るように胡散臭く見るだけだ。問題意識のようなものが人々に周知され始めるとそこではじめて受容のまえの強い反発の時期に入るようになる。それから反発の網をかいくぐってすこしずつ解放されていくわけだが、そのうちの反発の時期がいまだ。
インターネット上では女だたき、男だたきで満ち満ちている。男は女を外見と打算だけで生きる頭の悪い生き物だと叩いて、女は男を性欲だけで生きている野獣だと叩く。
結婚すること、子供を設けることを人生の最終目標のように考えている人間が多すぎると僕は感じる。妊娠する機能妊娠させる機能があったとしてそれは選択でしかないという考えが、男女の平等が実現した未来では当たり前になっているのではないだろうか。しかし少なくともこの映画をレイトショーで一人で見て、気づけば一人で誕生日を迎えていた僕がこのように荒んでいるのはまったくもって哀れ極まりないことだ。
世界一のアイドルは誰かと問われたら、ぼくはそれをイエス・キリストだと答えるだろう。そして彼が彼を愛する者によって滅多刺しにされることもない。なぜなら彼はすでに手の届かないところにいるからだ。
手の届かない存在、アイドルをアイドルたらしめている理由はそれだけだといっても言い過ぎにはならないだろう。僕らが見上げて頭を垂れるべきものこそが偶像のありかただろう。
会いにいけるアイドルだとか地下アイドルだとかそういったものはそもそも矛盾をはらんでいる。与える側と受け取る側の抱いている理想と実質には互いに大きな乖離がある。目前にある等身大のものを見て人は眺めるだけではそうそういられない、その存在を自らのなかで大きくさせればさせるほど、偶像であったはずの存在が、安い照明に照らされて汗をかき全くの生理性を見せてくると、与えるだけの崇拝ではなくなって、肉体的(現実的)対価を求めることが自然に思えてくる。
遠藤周作の「沈黙」のなかに出てくる最弱のキリスト教徒「キチジロー」は生きるためになら踏み絵でもキリスト像に唾を吐きかけることすらも出来てしまうが、その罪を宣教師(パードレ)に懺悔させてくれと何度も何度も神を裏切ってなおすがりつづける。
キチジローが求めたのは宣教師による免罪であり、つまり彼が求めた救済はより身近な存在であり、物語が進むにつれ彼がどれほど神以上に宣教師自身を求めたかがわかる。人は弱ければ最も手近な存在を求め依存しその愛情を強めていく。しかしその接近は同時に偶像があられもなく実体であることをじわじわと知らしめ、その落胆こそが、一対の不完全な肉体と精神をもつ人間同士を結びつける愛情となる。しかし、それをさせないように落胆をぎりぎりの度合いで回避しようとしているのがいまのアイドルビジネスだ。多大な危険性をそもそもはらんでいる。ギャンブルにおいて金が尽きて絶望するぎりぎりでわずかに勝つことをくりかえすうちに人がどうなるかは自明だ。
アイデンティティの確保は時代を経るごとに難しくなっていく。それに従って一角の人物を夢見る人々が増えることを何事も止められない。たとえかわいそうな女性が滅多刺しにされても、脚光を浴びる夢をみて最も偶像的でない場所から偶像的存在になろうとする人は減らないだろう。情報に満ちて本気を出せばだいたいのことには手がとどく時代に手の届かない存在になろうとすることは、太陽を目指すイカロスぐらい無謀じゃないだろうか。
ライアン・ゴズリングは大仰な演技をする役者だと思っていた。ついこのまえも飛行機のなかでみたThe Nice Guysという映画に彼は出演していた。その映画自体はなかなかひどい作品で、ジョークは面白くないしストーリーのテンポは悪く、太り過ぎたラッセル・クロウが辛そうに走ってライアン・ゴズリングが窮地に陥るたびにFワードを言うだけの映画だった。そのときからライアン・ゴズリングをぼくは演技がわざとらしい役者だと思ってみていた。すこしキザに過ぎるところがあってジャニーズ俳優ほど酷くはないにせよ、使い所が限られそうな役者だと感じていた。
La La Landはぼくの好きなエマ・ストーンが出ているから絶対に見に行こうと決めていた。大きく広告を街中に打っていたわりに安い映画館だとブリスベンで一つしか上映していなかったため平日の昼間に行ったにもかかわらずほぼ満席だった。そうして見た肝心の映画は面白かった。はっきり言ってありきたりなストーリーにミュージカルを乗せたものだし、逆に言えばミュージカルはオペラと同じように歌って踊っていれば別にストーリーは取ってつけたような軽いものでいいのだから、それでも見終わるまでちゃんとひきつけてくれる映画だった。多少は僕自身二年半におよぶひどい恋愛を終えたばっかりだったから、キザで常に時代遅れのロマンティシズムを追って、もう一度はじめから恋愛できるならもっとこうしたのにということを考えているライアン・ゴズリングに自らを重ねてしまったからだろう。彼の大仰な演技はミュージカルにおいては最大限にはまっていた。
まるで純愛ものの映画などを感動して見るような女性ほど、純愛から全く程遠いことが多いように、清廉性を大事にする人間は自らを否定している。恋愛映画にあるような、素直な男からの愛情を求めて、真っ直ぐな眼で言う「あなたを愛しています」を待っている。そしてその言葉は、自分が他人よりも謙虚でいたから言われたのだと信じているからだ。しかしそういう人に限って一度愛されたと知るやそれを当然のことのように思いはじめる。
謙虚なだけの人間は嘘の構造物にすぎない。美徳は世の潤滑油にしかならないのに、ジョークとして通用するほど就活では自らを潤滑油に例える学生が大勢いるという。エンジンオイルは車にとって必要だが入れすぎたなら却って車の機構全体に負担をかけることになる。本当に必要なものは露骨に機能する単目的の部品だ。ミュージカルにおいて歌って踊るのは煩瑣な描写を飛躍できる美徳の共感でありその目的に従ってLa La Landの序盤は歌って踊るが主人公二人のエゴが食い違ううちに歌も踊りも減っていって、最後に歌が現れるときはエマ・ストーンが自らの夢のために自らを次の利便へと飛躍させようとするときだ。これはまったく新しいミュージカル映画における歌の使いかただろう。
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