ものづくりという言葉がブランドとなって日本の制作技術はなおさら衰退の一途をたどっていくのではないかと今回の下町ボブスレー関連のニュースを見て思いました。中小企業の応援を国が一丸となって行ったその代表的プロジェクトがこのようなものになってしまうのはなんとも行き先が暗くなりそうではないですか。

大企業に対しての言葉が中小企業というのは国家レベルの経済をみて対応する指標となりうるからでしょうが、今回のプロジェクトで割りを食らいに食らっているのは中小企業支援によって関わった広告会社およびスポンサー企業(ジャマイカによるボブスレーの五輪使用不採用を決定後に広告をボブスレーから剥がした企業群)ではなく、今回の件で無償の参加を求められた弱小、零細企業ではないでしょうか。大量におりたはずの補助金がどこにいったのかわかりませんが、部品を作った工場は材料費さえも自費で頼まれたという話ですし、なによりもその話を代表者があたかもそれが美談であるかのように語っていることが日本における技術軽視の典型のように見えます。この代表者自体が部品屋であるのにもかかわらず。

今回の件は日本が世界へ見せつけた醜聞以外の何物でもありません。大田区は技術力もなく納期の概念もわからない工場の密集地と思われることでしょう。これは単にメディア戦略による金儲けでしかありません。下町の町工場の活性化が目的なのだとしたらどうしてその部品を無償で作った町工場の名前が一切なく、大きな企業の名前ばかりなのでしょうか。大量のメディアミックスがあったのでそこに大量の補助金が流れたのかもしれませんが、肝心のボーイングなど航空産業への技術力誇示をするための公式サイトの英語版には参加した町工場の名前がどこにもありませんし、英文はなんとも読みにくく、側だけ凝ったばかりの訪れる意味のない代物です。お金の使いどころは下町とは縁のない大企業のまわりを回る遠心力に費やされているようです。

今回の件においてこの広告戦略を考えた人物、プロジェクトの代表者、行政との連結を進めた人は本当に前時代的な恥ずべき存在であることが誰の目にもわかったと思います。このような人たちがもう二度とあらわれないように、日本は気を引き締めなければ衰退を抑えられないでしょう。広告だけを主体にした空虚な膨張は未来の経済を育てる場所を奪うばかりです。スポーツを種に広告を展開するにしてもその媒体が持っている方向性すら見失うほどに膨張した挙句にこのような恥ずべき事態に陥るのです。努力をしていればたとえそれが非効率であっても許されていると信じている美談好きは、効率の最大化を見積もりそれを示すコンサルティングを馬鹿にしているところがあります。旧態依然の軍隊染みた(しかも軍隊として見ても現代からすれば極めて非効率に過ぎます、旧態依然な思考による専横は破滅を招くことはイェニチェリを見るに明らかですし)努力の美学に惑わされない人になることがこれから求められると思います。
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下町ボブスレーの醜聞を見ていて思ったんですが、小手先の器用さは技術と呼べるものなんでしょうか。大手企業に代わって自分たち町工場がやっているからすごいという構図はなんだかずれているように感じます。大企業が自前で施設を用意するより安いから注文しているのに過ぎないのではないでしょうか。
僕の実家も町工場だったから思うのかもしれませんが、町工場が大企業に対してもっている強みは小ロットで対応できることに尽きるのです。ぼくの祖父や伯父がシャフト内に行うねじ切りの精密さはNCなどで行うよりもうまくねじがはまるのなどという話はききますが、それも少ロットで対応できるということの付加価値でしかないのです。
技術も長年の研究によって培われるノウハウも発注書に合わせて町工場がひく図面のうえにはあいまいなものとしかうつりません。

しかし今回の醜聞が醜聞たるゆえんは井の中の蛙が無勉強で100点を目指す小学生のようなことをしただけではないんです。全体のうさんくささ、前時代的なメディアミックスにあふれる金のにおいです。電通か博報堂かなにかは知りませんがいかにも大手の広告会社が行うスクラム型の宣伝の典型を見たように感じました。
この企画が見通しにおいて甘すぎたことは今現在だれの目にも明らかなことですが、企画がこけたときにあまりに多くの利害関係者が関数的に損失を被っていって、その回収のためにさらなる醜聞を重ねていることがインターネット社会においても半鎖国している日本の情けなさです。
技術大国日本という言葉はあらゆる技術のどれにも関わっていない人だけが信じているものだと思っていましたが、まさか町工場などもそう思ってリサーチ不足について誰も疑わなかっただろうことが驚きです。
技術とはある事物への深い理解を効率性の向上を軸に集積させたものです。ただ仕様書どおりに作れるということを技術とは呼ばないのです。大田区の町工場がどれほどの危機的な状況なのかは知ることではないですが、大きな企画で一転を図らなければならないような状況なのだとしたらなおさら、彼らは自分たちを正しく見つめるべきです。今回の失敗はリサーチ不足であり専門家からの助言やレギュレーションを甘く見たことです。それらはすべて彼らの発注元の大企業が先に図面に起こす段階でやってくれていたことなのですから。

日本の町工場が優秀なのは事実なんだと思います。少ロットの生産でも納品書通りに仕上げて基準にあわない不良品がほとんど出ないのかもしれません。しかしやはりそれは技術ではないのです。とある技術においてその根幹を支えているのは研究であり対象への理解です。これからの時代技術と呼べるものの本質は研究機関にしか置きえないことだと思います。
しかしこれはぼくがソフィーの世界を読んだときからずっと残っているこれからの時代への警鐘なのですが、技術の進歩にともなってその理解のための前提として必要な知識は日々広範になってきていて、早期に学習を終えた人、生活するだけの存在となった人にはどんどん魔法のようなものに見えてくるのです。そうすると極左がときに極右になったりその逆もしかりですが、一見真反対のものが結び付けられる転換が生じてしまいます。
科学とオカルトの融合は昔から油と水がちょっとしたつなぎさえあれば乳化するように隣どおしにありました。統合失調症の患者はいまでも毒電波を防ぐために頭や家にアルミを巻くことを怠りません。今回のことで日本のメディアはジャマイカには人情がないという風に批判していました。「おごれるものはひさしからず」とはこのことでしょうか。本当に技術大国なら人情なんてなくとも競合他社を押しのけられるというものではないのでしょうか。そしてそもそもオリンピックは政治的利害とは無縁でならなくてはいけないものです。オリンピックで使用しなかった場合違約金が発生するという契約なのだったとしたら、その違約金を払ってもなお、優勝を目指すものとしては選びたくないものしか作れなかったのです。これは技術的大敗であるのです。
それにしても日本は昔から小手先の技において光るものを持ってきましたが、なぜか一方的な合理性を押し通すための精神論を求める傾向にあります。ぼくはよく愛を込めもせず花束をあげたりするのですが、日本では愛をこめて花束をと歌ってもあげはしない人が多いようなきがします。歌は現実には不似合いな感情を節に乗せてすこしハードルを下げたものですから、あたりまえのことは歌われません。純恋の歌が流行るということは純恋がないからということです。他人に人情を求める状況は自らも与えていないのです。
科学が進むと同時にオカルト信仰も進みきってしまった未来を描いた傑作として酉島伝法の「三十八度通り」というものがありますが、いまどこで読めるかは知りません。毒電波を抑えるために自動販売機に注連縄を巻くような未来をのぞき見たい人にはおすすめです。
僕は本を読むのが好きですし、そのなかでも一般に純文学と言われるような心にいつまでも残るようなものを持っている作品が好きです。この好みは映画やアニメや漫画、絵画などに対しても一貫しています。その心に残るようなものにも明らか日常では経験しえないものと、日常の些細なものながら、気づきにくいものの二種類あって、僕はまだ自分が若いのとどうもコモンセンスが欠けているようで後者をつまらなく思ってしまうことが多いのです。

この映画に描かれる世界はどうやっても僕が生きられない世界ですが、そこに生きている人がいて映画にリアリティを与えるための詳細を語るに足りるそこでの常識があるものです。この作品の主人公はもちろん僕なんかと比べればその何千倍もタフですが、彼女もまた僕と同じ感覚を経験してくれます。

<あらすじ>
FBIで麻薬組織の犯罪を追う主人公は命がけで挑んできていました。上司にすすめられて国防省主導で犯罪組織の親玉を狙うチームに参加することに決めました。そこのボスであるマットはミーティングへ草履で現れる感じの人で主人公はうさんくさく思うのでした。同時に謎のコロンビア人アレハンドロに会います。アレハンドロはやばい雰囲気たっぷりです。
親玉の場所を知るために幹部でもあり親玉の弟でもある人物をメキシコの警察署から移送するのですが、マフィアに襲撃され皆殺しにしますが警察にも裏切り者がいて疑心暗鬼になる主人公。
アレハンドロは弟幹部を拷問にかけて兄の場所を聞き出します。またメキシコの不法入国者をあつめて意見をきいて麻薬密輸のためのトンネルを発見します。同時期に彼の金の流れもつかみそれを凍結しますが、主人公の意図と反しマットはここで金を洗って幹部を逮捕しても意味はなく、そのさらに親玉の麻薬王を狙うのだというのです。
その間もストレス溜まっててワンナイトですっきりしようとしてもその相手が買収された警官で殺されそうになったり、散々な主人公。
やっと襲撃作戦を決行するもその前に、マットからCIAやデルタフォースが国内で活動するためにFBIの監視がいるから誰でもよかったと言われてショック。もやもやしながら任務へ。トンネルの奥で汚職警官を捕まえてどこかへ行こうとするアレハンドロを止めようとするが防弾ベストを撃たれる主人公。アレハンドロはどこかへ。怒りを大爆発させるもマットに力で抑え込まれて真実をきかされるのです。彼は家族を麻薬王に(だいぶむごく)殺された元検事の殺し屋で、CIAは彼を利用しているといいます。
そうして麻薬の流れをコロンビアからに絞ることでアメリカがそれを把握できるようになり、どこから入ってくるかわからないのよりいいのだというが、釈然としない主人公は全部ばらしてやるというのです。
復讐を終えたアレハンドロは主人公の家に侵入してきて主人公の指紋がついた銃を突き付けて、今回の任務は何も問題なかったという文書へサインを強要し、狼しか生きられない世界があるのだと言います。彼の去る後姿を撃とうとするが撃てないのでした。


何がいいってアレハンドロがかっこよすぎるのです。
Sicarioというタイトルが殺し屋という意味らしいですからこれは彼の映画であるのですし当然ですが、彼の存在感が半端ではありません。家族を殺された恨みがじわじわと彼の内面と外面を削っていったのでしょうが、身のこなしこそ危険な状況では一瞬で機敏になるものの絶対に変わらない表情、生きていない目や開きたくなさそうな唇はとても魅力的でした。
主人公はEdge of Tomorrow でもヒロインを演じていた女性ですが、肉体派の自立志向的ヒロインを演じるにふさわしい人物です。パッドが入っているかも怪しいただの布だけのような下着を着まわして、髪の毛は後ろでくくるだけ。刺激がいるだろうと同僚に飲みへ連れ出される状況になってハイカットのコンバースのひもを余った分を後ろへ回すくらいのおしゃれしかしないのですが、格好良くてきれいに見えます。
そのかっこいい彼女は男女の同化が日々進みつつある現代の代表のような人物であるように僕は思いました。そんな彼女が国家的視野や復讐といった倫理の枠を超えた非情な世界を知って自らの足元を失っていく過程を見るのはつらいものがありました。倫理も道徳も安全度合いの似た場所でしか通用しないもの、本当はそういうものの生き残る世界でやっていかなければならないのをぼくらと経験してくれたのです。
この倫理の通用しようがない世界を語るうえで欠かせない描写が、メキシコの警官シルヴィオです。彼は映画の初めからたびたび登場しますが、息子から好かれていて、遊んでやりつつも銃には絶対に触らせないなどまっとうな父親らしさを見せますが、彼は汚職警官であり麻薬の配達をパトカーで行っているところをアレハンドロに捕まってしまいます。シルヴィオは彼に利用され、息子がいるのだという命乞いもむなしく痕跡隠滅のため射殺されます。汚職しなければ彼は死なずに住んだのかもしれませんが、優しい人間ですら汚職に手を出さずにはいられない、先進国の期待する倫理の通用しないメキシコの現実を知らされるのです。
関係ない話ですが、この前大学で情報の可視化(さらに脱線する話ですが僕は『見える化』という頭の悪い言葉は大嫌いです)をする課題で、世界中からランダムに選ばれた五つの都市の犯罪件数のデータを、意味を持った情報へまとめインフォグラフィックにするものでしたが、僕に与えられた都市のうち一つがこの映画の舞台、フアレスでした。僕がつくったインフォグラフィックはフアレスがぶっとびすぎて、なんだかとても恣意的なものになってしまったのを思い出しました。
負の連鎖、そういうものってあるんだねーといった文脈で語られることが多いが、現実にこの連鎖はどこにでもあるし、逆に正の連鎖もある。それらは連なり重なりあった鎖というよりもいびつかつ緻密な網の目をしているのではないか。正負のそれらは全く逆に作用する。正のほうでは、そこから落ちそうになったかわいそうな人をまわりが引き留めてくれる。しかし負のほうでは、そこから這い上がれそうな人を妬んで抑え込もうとする。周りの目を盗んで気づかれないうちに次の網目まで登りきらなければならない。
この作品にずっしりと横たわっている世界はどうしようもないくらいのどん底だ。物語は犯罪からはじまり犯罪で終わるほど、主人公が幸せを求めるたびに誰かが不幸になっていく。あるいは、もともとそこまで幸福でもなかったろうから大したことないだろうと思うのかもしれない。

<あらすじ>
主人公ロバートパティンソンは知的障害を持っている弟と銀行強盗をする。ばれることなく逃げおおせることができたかと思ったが、銀行員がカバンの中に札束と一緒に忍ばせた時限性のカラーボールが爆発して逃走車は事故を起こす。弟はパニックになり、徒歩での逃走中にも動揺しぱなっしですぐ警察から怪しまれ走って逃げるも弟だけ逮捕されてしまう。兄はなんとか手に入れた金で弟を保釈させようとするが、多くがカラーボールの塗料でためになっており、あと一万ドル足りないといわれる。知り合いで肉体関係のありそうな年増の女性に頼むも、彼女のカードは凍結されていて使えない。しかし弟が病院に搬送されていることを知った彼はイチかバチか救出に向かう。監視している警官のすきをついて逃走に成功するも泊まるところのない彼は同じ車いす送迎バスにいた女性に頼み込んで一泊させてもらう。そこの16歳の娘クリスタルは元カレが薬の売人だったり祖母との仲がものすごくわるかったり。彼女と一緒にテレビを見ていると、ニュースが入り主人公の顔が大写しになる。焦って彼はクリスタルにキスをして彼女の部屋を連れ込んだ。すると弟が起きだして混乱して暴れだす音が聞こえる。行ってみると弟でなく、別の囚人だった。アル中のこの男は主人公のせいで脱獄することになって罪が重くなったから責任とれと迫り、行く当てはあるという。ここで彼が逮捕されるまでの回想。主人公はアル中の仲間が遊園地に隠している麻薬のボトルを売れば弟の保釈金になると思って案内させる。クリスタルの祖母の車を盗んで三人でそこへ向かい、侵入する二人。しかし警備員にみつかってアル中は捕まり、通報されてしまう。主人公はなんとか殴り倒して、見つけた麻薬を警備員に飲ませて(一滴でハイになれるくらいのやつを1カップほど)服を奪い、彼を侵入者に仕立て上げ、なんとか警察を追い返す。その際クリスタルも捕まるが、侵入者のツレだろうと言って彼女は補導された。
警備員の持ち物を漁り、彼の家へ行く二人。アル中の知り合いに連絡させてボトルを買い取らせようとするが、アル中はその男と共謀し奪い返そうとするも、警備員の飼っていた番犬の力を借りて命からがら撃退するも、騒ぎをききつけた警官に取り押さえられてしまう。その際駐車場に転がっていくボトルを目にしたアル中。警察に開けるよう言われる焦りからベランダをつたって逃げようとするも足をすべらせて落下死。
そのころ、弟は知的障碍者のためのセラピーを受けていた。
</あらすじ>

優れた物語がもつ壮大な感覚は、はじまりの地点からどれほど遠くに来たかと思わせるところにあると思う。たとえば村上龍の「歌うクジラ」を読んだとき、隔離施設の少年が宇宙まで旅をするのを見てその壮大さにうっとりしたものだった。この作品の冒頭からはいったい主人公たちがどれほどのどん底にいたのかはわからない。ただ主人公の弟へ対するとても強い愛情から、彼らが二人で生きてくためには犯罪をせざるを得なかったのだろうとしか推測できない。しかしそこから事態はどんどん悪くなっていく。Good Timeという題が際限なく皮肉へなってどうやってももう戻れはしないのだろう地点にまで行ってしまう。物語が非日常、ないし非日常的感覚(日常に時折ありながらもあなたがつい見過ごしがちなもの)を与えるものだというのが第一義だとするなら、これは第一級の物語だ。その物語を最後まで推し進める燃料は焦りだ。カメラは登場人物が焦るときの表情を絶対に逃さない執念で追っているように僕には見えた。焦りのなかで最良の答えを見つけ出そうとするその一瞬、それこそが普通の生活にはない"Good Time"と思うのは考えすぎかもしれないが、僕には人々の焦り顔を追っているうちに気づけば終わりになっていたようだった。
ロバートパティンソンはトワイライトこそ見ていないものの彼の顔も演技もすごく好みだ。これからもいい映画に出てほしい。
ぼくは基本的にはBased on a true storyと先にうたう作品に対してなんとなく距離をとってしまう。Inspired by a true storyはまだましだけど、やっぱり嫌な感じは残ってしまって、観ていて粗だと思う部分を事実に基づいているから仕方がないと言っているように、僕には聞こえてしまうのだ。
もちろんこの事実に基づいているという前置きがあっても面白い作品はあるし、まさにこの映画がそうだった。親は知っていたがぼくはこのテニスの試合があったことを知らなかった。トレーラーをみておもしろそうだと思い、スティーブカレルとエマストーンが好きだから見ることに決めて、チケットを買い、観る直前になって少しググってようやくこの出来事を知った。
映画は最初から最後までエマストーンの魅力を原動力に走っていった感じがあるようだった。今の時代のジムキャリーであるスティーブカレルはコメディ映画やファミリー映画にでるときのような受け狙いのオーバーリアクションを抑えて、利己的で調子のいい古い男に徹していたし、アンドレア・ライズボローが演じる恋人の、誰もがついうっかり手を出してしまうような艶妖さも映画に素晴らしいスパイスを与えていたが、なりよりも僕が目を離せなかったのはエマストーンだった。
ぼくはずっとエマストーンは未熟なりにも自分の世界で完結していてぎこちなく不安定ながらも自立指向の女性を演じさせたら右に出るものはいないと思っている。たとえばアメージングスパイダーマンでの彼女は少し最初から出来すぎていてはまっていなかった。自立しきっているものに対して、僕はあまり魅力を感じない。これはあくまで個人的な感性だろうが、たとえば僕はそのような人に恋心を抱くことはないように思う。自立できている人には僕が必要になる要素がありそうもないと思ってしまうからかもしれない。
寺山修司の「美しい女とは美しくなろうとする女のことである」的な有名な詩の一節は全くの事実であるが、今の時代では決して女性に限定されるべきものでなく、人すべてにあてはまるものだ。ぼくは美しくなろうとする人に惚れる。対象を女性に絞るとしたら、ぼくはもう一つ、このエマストーンのもっている「ぎこちなくも自立志向」である要素も求めてしまうかもしれない。男女は平等であるべきだ。
エマストーンの演じる女性もただ平等を求めるためだけに、男対女の試合へ挑む。負ければ大いなる恥がつきまとい、次にこのような機会が訪れるまで状況が変わらないままになるかもしれないという恐れを抱え、その過程でいくつかの葛藤を背負い込んでしまってもなおなんとか冷静を装って挑もうとする彼女のぎこちなさはいじらしく魅力的だ。

関係ない話
日本のツイッターでは#metooのタグでのセクハラ暴露がなんだかこじれている。
ケビンスペイシーの同性に対してのセクハラもこの運動の初期にあった気がするが、日本ではなぜだか男性セクハラ被害者は発言をするなというような論調が幅を利かせているらしく、僕は混乱してしまった。たった一人で誰にも言えないままだった性的被害者に対して不特定多数の他者が同調して声を大きくしてやることで泣きねいりをさせないようにするのが本来の目的なのだと僕は思っていたが、一部のミサンドリストからするとそういうことではないらしい。
僕は男女どちらも好きだしどちらも嫌いだ。嫌いな部分はだいたいどちらも自らが生まれ持ってきた性質に胡坐をかいていることによる場合が多い。自分が持って生まれたもので他者を見下す行為はとても前時代的だと思う。すくなくとも僕は「どちらでもないもの」の味方でありたいと思っているから、両端のどちらかであるというだけで鼻高々な人々は、ほかに誇るものを得る機会を逃してきつづけた人なんだと思ってかわいそうに思ってしまう。
インターネット上の論争は世の中のあらゆる論争のなかでも最底辺なものが最も目立つ。最底辺なものは情報量が少ないのに強烈で情報弱者はすぐに中毒してしまうのだが、ネットで見かける女叩き男叩きはその最たる程度の低さで突き抜けた哀れさを感じさせられる。男はクソ、女はクソ、なにを言っているのだか、どちらもお粗末なものだ。クソな男がクソな女を嫌って、クソな女がクソな男を見下して、至極お似合いに見えるじゃないか。