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共感性羞恥という言葉を最近よく聞くようになった。たとえば映画のなかで主人公やほかの登場人物が公に辱められるシーンで、そのひとに自らを無意識のうちに投影してしまい、その後すぐに辱められることがわかっているだけに、もう避けようもないところにいたたまれなくなってしまうことだ。僕自身そういうところがある。主人公がこうむる肉体的な痛みは見ていていっこうに平気なのに精神的恥辱は見ることが、たとえそれが物語の筋のうえでどうしても必要なものだとわかっていてもつらくなる。
物語のなかにモラルを超越した暴君が現れることがある。映画「ギャングオブニューヨーク」におけるダニエルデイルイスのような人物を見たとき、受動的で共感性の強い人間は自分がその場にいたらどのようにしてこのモラルを超越して自己利益のためや時に気分で他者に危害を加えうる人にどのようにすれば上手に気に入られるかと考える。その状況にかかわって起きうる最悪のシナリオをどのように自分なら回避できるかを考える。
このギドモーパッサンの名作のようなすばらしい短編には、えてして回避しようのないどうしようもなく自らの良心だけが痛む結末が控えている。
特殊な、常識だけでは打破できない状況に多人数が巻き込まれたとき、全員はそのうちの誰かがその常識を破ってそれを切り開いてくれるのを期待する。その期待は、いまだ満たされていない時間が延びればのびるほど自分が本来その範囲内にとどまっている気でいるはずの常識や良心の範疇を優に超えてほぼ強制的になってくる。しかし、ひとたびその状況が、打破するポテンシャルを持った人物による常識を破るほうほうによって打破されたとなるや、期待するだけの人々は我先に元の常識の世界へ立ち返って常識破りの行為の如何を遡及的に問いはじめる。
共感性羞恥は一見そのひとがとても心優しい人物であるから引き起こすいたいけでかわいそうな症状のようにとらえられるが、実のところその真逆だ。その状況に対して五感を閉鎖し無視を決め込んでひたすらだれかによる打破を期待する、あらゆる社会の状況にたいして帰属意識を持とうとしない人間が、逃げられない状況に苦しんで甘えているにすぎない。
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ぼくらの世代は戦争はよくないからよくないのだと教えられてきたような世代だ。そこにはあまり理屈を込めて教わったような記憶がない。教育に政治が入り込むことは本当にうっとうしいこと極まりないが、日本人が戦争の加害者でありそれと同時に被害者でもあることと、それがあったという事実だけは歴史として無視するべきことではない。しかし大事なのはやはりそのどちらでもあったということだ。
相互補完的な感情論になってしまうかもしれないが、僕は死刑賛成と戦争なにかしら近いものを感じてしまう。ある一人の人間Aが自らの利益を優先して、その結果としてもう一人の人間Bが死ぬこと(例えば餓死すること)になるとする。Aはまたそれを知っていながら自らの欲求を満たした場合Aの罪はどれほど重いのか。またその死を回避しようとして倫理に悖る行為すらしたとしてBの罪もまたどれほど重いのか。
戦争は多くの場合そのように発生している。規模の問題なんじゃないかと思っている。
村上春樹の小説は日本のほかの小説とは明らかに違うし、その相違はのちのフォロワー的に見えるひとびととも違うようにみえる。それは他者との距離だ。物語において主人公やその人にとても近い人間いがいが自らのもつ小さな物語を話す。その人物がたとえ完全に他者であった場合多くの日本の小説は他者としての距離を保ったままその話を聞くが、村上春樹の場合は完全にはいりこむ。しかしその距離感は決して映画や漫画、アニメにあるような完全にその人の内部へ移行しての回想ではない。物語をはなすその人と物語をきく主人公の自分そのどちらにも同じ距離で接近して矛盾させることなく物語全体をその先へとすすめていく。そこに村上春樹の長編小説の比べようのない魅力がある。
これは一種の矛盾だ。しかし矛盾を矛盾とみとめないまま無理やりに創作をすすめることにこそ魅力が生まれる。ときに日本の小説は円滑なながれ、理詰めにおいての矛盾や破綻について極端にきにしすぎるところがある。もっとも最近は矛盾が抱える魅力を自分のものにしている作家も増えているけれど。
とある人に負わされた傷が深くて化膿してながらく癒えなかったから、こんなにもしばらくぶりの更新になってしまった。
文学が好きという奇特な人がときおり迷い込んでくる以外はBotが見回りにくるだけのブログだから一向に誰もかまわないのだけど、文章に起こすというやり方でしか頭をうまく使えない僕にはやはり文章を書くという行為が次第に恋しくなってきていた。
僕にとって良い文章に触れるよろこびは恋人を持つことよりもはるかに重要なことのようだ。
恋人は四割くらいの友情に性欲と世間体を三杯酢をつくるくらいの適当さで混ぜたものでしかない。
つまり恋人になることがもうそもそも不完全で平均台の上で眠るほど不安定でそうな状態をいつまでも続けられるわけもないから人はそれぞれに別のものを見つけはじめる。
性欲の割合が強い人はふらついて、世間体の割合が強い人が趣味に没頭しだす。
そうやって自らを満たす性欲や他者に対して自らをよく見せようとする趣味に長じてくるにつれて人は次第に肥えゆく。
肥えてくるとまるで脂肪分の多いスープのように恋人との状態はこごって腐敗発酵する。

ここまで書いて見直してみるともうまったくもって自分がむきになって恋愛を否定しているのがばかばかしいほどだ。
ぼくはもともと世間体がきらいな方で、これによって人が自らの思うままの行為に制限をかけるのを見るとむかついてくる。
行動と思考の指針が世間体にならっているということは潮流にのるままに生きられる楽なことではあるが、これが絶対的価値のようになると人間の幸福のかたちは均質化して社会の発展は滞り新たな幸福のかたちが生まれない社会は既存のパイを奪い合うだけの殺伐としたものになる。
新しい価値観の想像は次第に埋められていくパイに新しい幸福の枠を増やすことにある。
それは息苦しさを極めていく社会を救済する哲学だ。
日本の文化の多くをすばらしいものと思いながらもぼくは日本の社会がいびつな殺伐さでいっぱいになっているのを旅行するたびに思う。
かつて住んだはずの国なのに住めないと思ってしまう。
日本人が望む幸せは安く早急で、それは多様性の乏しさによる壮絶なパイの奪い合いだ。
一元的すぎる日本の価値観は変わらなければならない。
パイを増やそうとしなければ、その代わりにあるのは一元的な日本人のあるべき形の定義をむりやりに狭めて排斥することだ。
そうなってほしくはない。
僕は過去から現在まで一貫して男女の平等があるべき形だと思ってきたし、同時に男はこうあるべき、女性はこうあるべきといったジェンダーの強制や、それとは逆に自己利益のためにジェンダーを都合の良い時にだけ用いる人々を軽蔑してきた。僕は自分のなかに男性と女性の両方が存在していることを長らく感じてきたからだ。そして、告白すると僕自身もそのジェンダーにめくらましをされていたことも長らくあった。恋愛において僕は常に彼氏はこうあるべきという恋人の要求に翻弄されてきた。しかしそれは僕の自然を否定することでもあったことに気づいたのは実のところつい最近のことだ。僕は自分自身が美しいと感じるものに対して愛情を覚える。ナルシズムから発するものだとは思うが自分の魅力を男らしさにあるとは到底思えないし、女性を抱くときの興奮は女体の形とその人の人格を綺麗だと思うからだ。却って男性にはその顔と人格を綺麗だと思う。
けれどもそれは指標的なものに過ぎないし、多くのジェンダーの内側にいる女性たちのように美しくて素晴らしい人格の持ち主でしかも資産的に恵まれている人に求められて、ありのままのあなたとただ居たいなんて言われたら言うこともなくついていく僕なのです。
世の中、人間の愛情のあり方からみれば先に求めたほうが圧倒的に不利で、求める側へただそれだけの理由で立たされてしまう。僕はその不利を乗り越えられるほどの資産に恵まれていないので、求める側に立つ気はさらさらないい。潮騒の甘美な物語の求める側の気持ちはかつて男はこうあるべきだとアルファな女性たちに苦しめられてきた自分を思い出して苦しくさせられる。三島由紀夫自身もこれは死ぬべき哀愁の物語として描いている。このような恋愛はもうありえない。求める側と求められたい側の戦いの時代がこれからしばらく続く。専業主婦の否定と専業主夫の受容は同時に行われて、ジェンダーの内側にいる女性にとって辛い時代になるだろう。
貞操ほど信じられないものはない。公衆衛生的観点からあまり見境のないことは望ましくない程度で、誰が誰とどれほどやっていようとかまわないことだ。貞操は愛情になんら影響を与えない。結婚するまでセックスをしないという女は真に愛している人のためだけに保っているわけではなくて、ただ自分を大切にしているだけにすぎない。処女じゃなくても美人なら誰だってかまわないものだ。美女の範疇から外れた人だけがなんとか自分の価値を高めようと付加した要素に過ぎない。大した要素ではないからなんとかさもすごいことに見せかけなければならないので、処女でない人を見下そうとする。ネガティブキャンペーンを自らのマーケティングのコンセプトとした人々は男女の平等がどれほど叫ばれようといなくならない。男も女も、男はこうあるべき、女はこうあるべきという決めつけから自由になって愛し合えることもジェンダーフリーへの重要な一歩だが、結婚するまでしないなんていう、聖書にすらもともとそうあるべきとも書いてなかったようなことを重要視する女たちはいなくならない。そういう建前がないと男にもがっつきがいがなくなってしまって自分の商品価値があげられなくなるので既得権益が脅かされてしまう。
男はなぜしばしば女のことで頭がいっぱいになるのか、それは女が建前のもと、厳密な選考のすえにしか男と交わらないものと見せかけているからだ。そう考える人がいるのはいいが、風潮自体は打ち破られなければならない。しかしそのためには権威主義自体を打破する必要が出てくる。なぜなら処女自慢は学歴自慢と大差なく、しかもこの二つの鼻持ちならない連中はとても相性がいい。婚前交渉なしに結婚した夫婦は写真うつりの悪さに定評があるだろう。念のために行っておくが、もちろん婚前交渉している夫婦にだって目も当てられない人々はいる。
ぼくはおとなになってはじめて東京へ行ったとき、首都であるこの街にはきっときれいな人だらけなんだろうなとうきうきしていったが、なんのこともなくスクランブル交差点にあふれる人々はつまらない様子の人々ばかりでがっかりした。ぼくはかわいいものや形のいいもの、いい彩りのものが大好きだった。ものすごくかわいくて気が合う人だったら男でも女でも別にこだわらない。男は汗臭いことが多いから割りと少なくなるだけだ。こだわらないけど、こだわらないことを悪く思う人も多いから、よく隠す。以前の恋人には自分が関わった人数は半分しか告げていなかったが、それでも多くてふしだらだと見下された。それはそうと、ぼくはだから道を歩いていて色々眺め回す。形のいいものかわいいものいい彩りのものが見たくて。すれ違うひとの顔も身体もすべて男女問わず全部みて、それが綺麗だとおもうとついそっちのほうまでふらふらと行ってしまうときもある。
眠くなったからもう何を言いたいのかあやふやになってきたが、とにかく、ぼくにとって貞操はいささか古くて洗われてなくて臭い迷惑な代物だということだ。
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