すごく見ていてきつい映画だった。ぼくは映像のなかでのグロテスクなシーンがどうも苦手だ。役者の演技力や特殊効果に完全に騙されてしまっているのだからある意味理想的な視聴者なのかもしれないが、同じ監督のブラックスワンといい、痛々しいシーンでは耳も目も塞いでしまってみっともなくなってしまう。ブラックスワンは飛行機の中で見たのだが、靴を脱いでシートに三角座りをして耳も目も抑えて怖いシーンでひーひー言っていたぼくはおそらく周囲の人々に多大な迷惑をかけていたと思う。

この映画は輪をかけて気持ち悪い。はじめは他者が自分の空間で勝手にしているという嫌な感じがテーマなのかと思って、そういうじんわり嫌な感じのが好きな僕はうきうき見ていたのだが、死者がでてきて物語が宗教色をおびはじめてくるとあとは指数関数的に気持ち悪いシーンの連続だった。

詩人とその妻が住んでる家にファンを名乗る人々がやってきて勝手に騒動をおこし人が死ぬ。激高した妻を夫は抱き、その一夜で彼女は妊娠する。その妊娠を奇跡だと思った夫が書いた詩は傑作だったらしくどんどん人が彼を求めてやってくる。人々の波はとまらずかれらはわが物顔で妻の家で好き放題する。なぜなら詩人が「すべては分け与えられるためにある」と言うからだ。人々に占拠された屋敷の様相は不穏になっていく。異端排斥がはじまり女性の奴隷化が起こり警察が介入し内乱状態になり軍隊が出動し戦争状態になる。そこで家、子供という彼女の大切なものすべてを失い怒り狂った彼女はボイラーの燃料に火をつけて家ごと燃やす。焼け跡のなか全身重度のやけどをした妻を服すら汚れていない無傷の夫が解放し妻の心臓から宝石を取り出して、家は再生し、冒頭にもどる。

全世界?での公開がなくなったらしいから遠慮せずに書くが、産まれたばかりの自分の子供がついうたたねした隙に夫に取られて夫の信者に与えられて振り回されて首が折れて死んで、それを悲しんでその死を自らのものともしたい信者たちに身体をむしられて食べられていたシーンはいままで映画をみてきたなかでも屈指のトラウマシーンだった。
しかしあの映画をスクリーンで見られたのは幸運に思う。
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セックス依存症の主人公は一流の企業で働いていて一等地のマンションの部屋を持っている。帰宅すると彼はバッハのゴルトベルグ変奏曲をかけ、テイクアウトのごはんを食べながらポルノを見て、コールガールを呼び、空いた時間にもオナニーをする。寡黙がちで顔がいい彼は視線だけで女性を誘惑できて、おしゃべりが上司が言葉を尽くして落とせない美女と橋の下でやったりできる。
彼はとても規則正しく性欲にまみれた生活を送っている。それは完全に安定していた。

しかしその生活のうち絶えず留守電を入れ続けてきていた自分の妹がやってきてから彼の生活はおかしくなりはじめる。主人公が性依存症であるのと裏腹に妹は恋愛依存症だった。束の間にできたような恋人に毎日会いたがり毎分連絡をとらなければ気が済まず、振られそうになったらこんなにも愛しているのにと泣き落としにかかり手首を切ろうとする。その妹は妻子持ちである主人公の上司と関係を持ちはじめ、露骨に脅かされ規則性を失っていく生活のなかのいら立ちから兄妹をむすぶ彼らがこの世にもつたった一つのつながりの大切さが見いだされてくる。

主人公の徹底した素人童貞ぷりは面白い。彼はまったくもって人との会話の必要性を認めていない。他者は自分の性的欲求を満たせるかどうかにしか見られておらず、しかもその他者を口説くのにも彼は目を用いるばかりだ。彼の目力だよりぷりは見ていて本当に笑ってしまう。自分のベストな目で相手をあれだけ長時間見つめればぼくであっても簡単に人を抱きまくれるのではないかと信じてしまいそうになった。そうやって目だけで人を口説ける男だから社内の女性に誘われてデートに行ってもろくに会話ができないし、ホテルへ連れていってもプロとする愛のないセックスでしか彼は勃起をいじできない。

映画のなかで誰にとっても最も印象的なのは冒頭に出てくる三十後半とおぼしき人妻だろう。主人公は地下鉄内で彼女を目つきだけで発情させる。照れながらも興奮を抑えれない自分に驚いた彼女はあわてて電車からおりた彼女を彼は追いかけるが彼女を見失ってしまう。その後なにがあったかはわからないが物語の終わりにもう一度地下鉄で出会う彼女は男を誘いたがっているようなけばい格好に変わっていて、かえって主人公を誘惑しようと見つめてきていた。本来なら喜んで束の間の放精の快楽に酔いしれるだろうがいろいろあった後の彼はなんとも乗り気じゃない顔をしているのだった。
しかし彼はきっと映画のあとその人妻を抱くだろう。セックスに対しての依存はそう簡単に抜けるものでない。この映画はただそれが恥ずべきことなのかもしれないと主人公がただ思い始めるだけだ。優先度が恥によって揺らいだ。ただそれだけだ。
ぼくはプロとしたことはない。ただ精神的に不安定になると出会い系で知り合った人と一夜限りの遊びを繰り返してしまうときがあるし、そういう時はかえってぼくとの長い関係を求めている相手とは勃起が持続しない。相手が好意を尽くして行ってくれる官能を誘うための素振りすべてが冗長に思えてしまって、冗長に思えてくるといろいろとほかのことを考えてしまう。はじめはこの年で勃起不全かと嘆いたが、むしろそれが自然なものなのだろうと納得している。
その状態のぼくはあきらかに自分の神経的快感にのみ集中していて相手も同じようなものを求めているという意識が完全に欠如していて、あなたも快楽がほしいならどうぞ頑張ってくださいといった意識だ。二人して一つの頂点を目指すのでなく、同地点から全く別々の山を登りあう違う行為だ、愛のあるセックスとないセックスとは。

主人公のマフラーの巻き方は暖かくなさそうだがとてもかわいくて見た次の日はついまねしてしまった。あとぼくは個人的にキャリーマリガンは好きじゃない。グレートギャツビーの(といっても2013年のグレートギャツビー自体がひどい映画だったが)彼女とデイジーブキャナンの像はあまりにあっていなかった。しかしこの映画において彼女の何本か支える糸の抜けたような顔や末広がりに垂れた乳房などは恋愛依存症の女性像にぴったりあったはまり役だったと思う。
共感性羞恥という言葉を最近よく聞くようになった。たとえば映画のなかで主人公やほかの登場人物が公に辱められるシーンで、そのひとに自らを無意識のうちに投影してしまい、その後すぐに辱められることがわかっているだけに、もう避けようもないところにいたたまれなくなってしまうことだ。僕自身そういうところがある。主人公がこうむる肉体的な痛みは見ていていっこうに平気なのに精神的恥辱は見ることが、たとえそれが物語の筋のうえでどうしても必要なものだとわかっていてもつらくなる。
物語のなかにモラルを超越した暴君が現れることがある。映画「ギャングオブニューヨーク」におけるダニエルデイルイスのような人物を見たとき、受動的で共感性の強い人間は自分がその場にいたらどのようにしてこのモラルを超越して自己利益のためや時に気分で他者に危害を加えうる人にどのようにすれば上手に気に入られるかと考える。その状況にかかわって起きうる最悪のシナリオをどのように自分なら回避できるかを考える。
このギドモーパッサンの名作のようなすばらしい短編には、えてして回避しようのないどうしようもなく自らの良心だけが痛む結末が控えている。
特殊な、常識だけでは打破できない状況に多人数が巻き込まれたとき、全員はそのうちの誰かがその常識を破ってそれを切り開いてくれるのを期待する。その期待は、いまだ満たされていない時間が延びればのびるほど自分が本来その範囲内にとどまっている気でいるはずの常識や良心の範疇を優に超えてほぼ強制的になってくる。しかし、ひとたびその状況が、打破するポテンシャルを持った人物による常識を破るほうほうによって打破されたとなるや、期待するだけの人々は我先に元の常識の世界へ立ち返って常識破りの行為の如何を遡及的に問いはじめる。
共感性羞恥は一見そのひとがとても心優しい人物であるから引き起こすいたいけでかわいそうな症状のようにとらえられるが、実のところその真逆だ。その状況に対して五感を閉鎖し無視を決め込んでひたすらだれかによる打破を期待する、あらゆる社会の状況にたいして帰属意識を持とうとしない人間が、逃げられない状況に苦しんで甘えているにすぎない。
ぼくらの世代は戦争はよくないからよくないのだと教えられてきたような世代だ。そこにはあまり理屈を込めて教わったような記憶がない。教育に政治が入り込むことは本当にうっとうしいこと極まりないが、日本人が戦争の加害者でありそれと同時に被害者でもあることと、それがあったという事実だけは歴史として無視するべきことではない。しかし大事なのはやはりそのどちらでもあったということだ。
相互補完的な感情論になってしまうかもしれないが、僕は死刑賛成と戦争なにかしら近いものを感じてしまう。ある一人の人間Aが自らの利益を優先して、その結果としてもう一人の人間Bが死ぬこと(例えば餓死すること)になるとする。Aはまたそれを知っていながら自らの欲求を満たした場合Aの罪はどれほど重いのか。またその死を回避しようとして倫理に悖る行為すらしたとしてBの罪もまたどれほど重いのか。
戦争は多くの場合そのように発生している。規模の問題なんじゃないかと思っている。
村上春樹の小説は日本のほかの小説とは明らかに違うし、その相違はのちのフォロワー的に見えるひとびととも違うようにみえる。それは他者との距離だ。物語において主人公やその人にとても近い人間いがいが自らのもつ小さな物語を話す。その人物がたとえ完全に他者であった場合多くの日本の小説は他者としての距離を保ったままその話を聞くが、村上春樹の場合は完全にはいりこむ。しかしその距離感は決して映画や漫画、アニメにあるような完全にその人の内部へ移行しての回想ではない。物語をはなすその人と物語をきく主人公の自分そのどちらにも同じ距離で接近して矛盾させることなく物語全体をその先へとすすめていく。そこに村上春樹の長編小説の比べようのない魅力がある。
これは一種の矛盾だ。しかし矛盾を矛盾とみとめないまま無理やりに創作をすすめることにこそ魅力が生まれる。ときに日本の小説は円滑なながれ、理詰めにおいての矛盾や破綻について極端にきにしすぎるところがある。もっとも最近は矛盾が抱える魅力を自分のものにしている作家も増えているけれど。
とある人に負わされた傷が深くて化膿してながらく癒えなかったから、こんなにもしばらくぶりの更新になってしまった。
文学が好きという奇特な人がときおり迷い込んでくる以外はBotが見回りにくるだけのブログだから一向に誰もかまわないのだけど、文章に起こすというやり方でしか頭をうまく使えない僕にはやはり文章を書くという行為が次第に恋しくなってきていた。
僕にとって良い文章に触れるよろこびは恋人を持つことよりもはるかに重要なことのようだ。
恋人は四割くらいの友情に性欲と世間体を三杯酢をつくるくらいの適当さで混ぜたものでしかない。
つまり恋人になることがもうそもそも不完全で平均台の上で眠るほど不安定でそうな状態をいつまでも続けられるわけもないから人はそれぞれに別のものを見つけはじめる。
性欲の割合が強い人はふらついて、世間体の割合が強い人が趣味に没頭しだす。
そうやって自らを満たす性欲や他者に対して自らをよく見せようとする趣味に長じてくるにつれて人は次第に肥えゆく。
肥えてくるとまるで脂肪分の多いスープのように恋人との状態はこごって腐敗発酵する。

ここまで書いて見直してみるともうまったくもって自分がむきになって恋愛を否定しているのがばかばかしいほどだ。
ぼくはもともと世間体がきらいな方で、これによって人が自らの思うままの行為に制限をかけるのを見るとむかついてくる。
行動と思考の指針が世間体にならっているということは潮流にのるままに生きられる楽なことではあるが、これが絶対的価値のようになると人間の幸福のかたちは均質化して社会の発展は滞り新たな幸福のかたちが生まれない社会は既存のパイを奪い合うだけの殺伐としたものになる。
新しい価値観の想像は次第に埋められていくパイに新しい幸福の枠を増やすことにある。
それは息苦しさを極めていく社会を救済する哲学だ。
日本の文化の多くをすばらしいものと思いながらもぼくは日本の社会がいびつな殺伐さでいっぱいになっているのを旅行するたびに思う。
かつて住んだはずの国なのに住めないと思ってしまう。
日本人が望む幸せは安く早急で、それは多様性の乏しさによる壮絶なパイの奪い合いだ。
一元的すぎる日本の価値観は変わらなければならない。
パイを増やそうとしなければ、その代わりにあるのは一元的な日本人のあるべき形の定義をむりやりに狭めて排斥することだ。
そうなってほしくはない。