僕は過去から現在まで一貫して男女の平等があるべき形だと思ってきたし、同時に男はこうあるべき、女性はこうあるべきといったジェンダーの強制や、それとは逆に自己利益のためにジェンダーを都合の良い時にだけ用いる人々を軽蔑してきた。僕は自分のなかに男性と女性の両方が存在していることを長らく感じてきたからだ。そして、告白すると僕自身もそのジェンダーにめくらましをされていたことも長らくあった。恋愛において僕は常に彼氏はこうあるべきという恋人の要求に翻弄されてきた。しかしそれは僕の自然を否定することでもあったことに気づいたのは実のところつい最近のことだ。僕は自分自身が美しいと感じるものに対して愛情を覚える。ナルシズムから発するものだとは思うが自分の魅力を男らしさにあるとは到底思えないし、女性を抱くときの興奮は女体の形とその人の人格を綺麗だと思うからだ。却って男性にはその顔と人格を綺麗だと思う。
けれどもそれは指標的なものに過ぎないし、多くのジェンダーの内側にいる女性たちのように美しくて素晴らしい人格の持ち主でしかも資産的に恵まれている人に求められて、ありのままのあなたとただ居たいなんて言われたら言うこともなくついていく僕なのです。
世の中、人間の愛情のあり方からみれば先に求めたほうが圧倒的に不利で、求める側へただそれだけの理由で立たされてしまう。僕はその不利を乗り越えられるほどの資産に恵まれていないので、求める側に立つ気はさらさらないい。潮騒の甘美な物語の求める側の気持ちはかつて男はこうあるべきだとアルファな女性たちに苦しめられてきた自分を思い出して苦しくさせられる。三島由紀夫自身もこれは死ぬべき哀愁の物語として描いている。このような恋愛はもうありえない。求める側と求められたい側の戦いの時代がこれからしばらく続く。専業主婦の否定と専業主夫の受容は同時に行われて、ジェンダーの内側にいる女性にとって辛い時代になるだろう。
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貞操ほど信じられないものはない。公衆衛生的観点からあまり見境のないことは望ましくない程度で、誰が誰とどれほどやっていようとかまわないことだ。貞操は愛情になんら影響を与えない。結婚するまでセックスをしないという女は真に愛している人のためだけに保っているわけではなくて、ただ自分を大切にしているだけにすぎない。処女じゃなくても美人なら誰だってかまわないものだ。美女の範疇から外れた人だけがなんとか自分の価値を高めようと付加した要素に過ぎない。大した要素ではないからなんとかさもすごいことに見せかけなければならないので、処女でない人を見下そうとする。ネガティブキャンペーンを自らのマーケティングのコンセプトとした人々は男女の平等がどれほど叫ばれようといなくならない。男も女も、男はこうあるべき、女はこうあるべきという決めつけから自由になって愛し合えることもジェンダーフリーへの重要な一歩だが、結婚するまでしないなんていう、聖書にすらもともとそうあるべきとも書いてなかったようなことを重要視する女たちはいなくならない。そういう建前がないと男にもがっつきがいがなくなってしまって自分の商品価値があげられなくなるので既得権益が脅かされてしまう。
男はなぜしばしば女のことで頭がいっぱいになるのか、それは女が建前のもと、厳密な選考のすえにしか男と交わらないものと見せかけているからだ。そう考える人がいるのはいいが、風潮自体は打ち破られなければならない。しかしそのためには権威主義自体を打破する必要が出てくる。なぜなら処女自慢は学歴自慢と大差なく、しかもこの二つの鼻持ちならない連中はとても相性がいい。婚前交渉なしに結婚した夫婦は写真うつりの悪さに定評があるだろう。念のために行っておくが、もちろん婚前交渉している夫婦にだって目も当てられない人々はいる。
ぼくはおとなになってはじめて東京へ行ったとき、首都であるこの街にはきっときれいな人だらけなんだろうなとうきうきしていったが、なんのこともなくスクランブル交差点にあふれる人々はつまらない様子の人々ばかりでがっかりした。ぼくはかわいいものや形のいいもの、いい彩りのものが大好きだった。ものすごくかわいくて気が合う人だったら男でも女でも別にこだわらない。男は汗臭いことが多いから割りと少なくなるだけだ。こだわらないけど、こだわらないことを悪く思う人も多いから、よく隠す。以前の恋人には自分が関わった人数は半分しか告げていなかったが、それでも多くてふしだらだと見下された。それはそうと、ぼくはだから道を歩いていて色々眺め回す。形のいいものかわいいものいい彩りのものが見たくて。すれ違うひとの顔も身体もすべて男女問わず全部みて、それが綺麗だとおもうとついそっちのほうまでふらふらと行ってしまうときもある。
眠くなったからもう何を言いたいのかあやふやになってきたが、とにかく、ぼくにとって貞操はいささか古くて洗われてなくて臭い迷惑な代物だということだ。

自分の長時間の努力が全くの徒労だったことを知ったときほど自分が何のために存在しているのかとぐったりしてしまうことは他にないし、自分の虚栄を人に見透かされてしまったときほど自らの人生そのものを大きな徒労のように感じる瞬間も他にないだろう。こんな仕事つまらない徒労だと思いながらアルバイトをする学生はたくさんいるが、金が帰ってくるぶんだけ徒労よりは遠い。本当にあったのかは知らないが、ナチスが拷問としてひたすら土を掘らせてまた穴を埋めるのを繰り返させるというのがあるが、これももしそれに対価として金が支払われたならなんの徒労にもならない。しかし、これを捕虜にさせるとしたらそれを監督する人もなかなか大変そうに思える。ドイツ人への勝手な偏見になるが、生真面目なせいで離れたところで新聞でも読んで怠けてたらしばきにいくようなくつろぎはできなさそうだ。そういうことはアメリカ人のほうがやっているイメージが浮かびやすい。
しかし徒労が必ずしも無意味なことと思えない。子供のころは勉強よりも徒労のほうがはるかに魅力的に感じられる。部屋の電灯からぶら下がった紐の先を殴ってその跳ね返りを避け続けたり、自転車で校区を一周したり、トレーディングカードの架空の一枚を念入りに作ったり、消しカスからひたすら練り消しを作ったり、これらは確かに何一つ建設的ではないがひとりひとりの多様性を伸ばす最高の乱数のように思えるときがある。はっきりいってこんなブログは徒労でしかない。誰も見ていないしアクセスログがたまに伸びていると、まさに人に徒労を強いたようで申し訳なくなる。人が自分の思っていることをありのままに叫べる場所がありすぎるのも却って問題だ。ここは僕しか書き込めないしコメントもできないしおさわり厳禁でオナニーを見せつける昔ながらの風俗だ。マイナーな小説の題で検索するような暇人しかそもそもやってこない。僕のマスターベイションを見て映画デニッシュガールのリリーみたいに何かの参考にしてくれる人がいたら却って関心するくらいだ。日本だとツイッターみたいな終わりかけのSNSで公共の場でありながらありのままに叫べると思い込んで汁を飛ばしあっているから驚く。SNS疲れはこれからも増えていって、半匿名SNSがこれからの主流になっていくと思う。虚栄を垂れ流す人はいなくならないだろうけど。

日本にいてもオーストラリアにいても学校にあって僕はいつだっていじめを見てきたし自身いじめを受けた経験がある。いじめはなくなるものではないことを多くの人が察知していながらそれを仕方のないものと受け止めている。そしていじめは人が大人になればなくなるものでもない。大学の薬学部生だった女性が同じバイト先のギャルっぽい子を外見から知性が劣るだろうと明らかに見下す発言をしたのを聞いた。それはさも当たり前かのような口調だった。見下す側はいつだって見下すなりの理由がある相手が悪いと信じているから、いじめられるほうが悪いというような暴論が生まれる。よし自らいじめられる原因を生み出してしまう人間がいても、原因があるからといっていじめていいわけではない。一度見下し始めると、見下し続けるうち次第に見下していた原因が消失し、対象を「見下されるべきだから見下している」ようになる。いじめが発生しないのは嫌悪される対象がする側よりも上にある場合だけだ。それらは愚痴という形をとるようになるだけで、潜在しているものではあるのだが。ただ上にちょうどいい愚痴の対象がない場合、対等の集団のなかでほかも気に食わなく思っているだろうとされる対象をひとつ選んで下に置くことで、集団全体のガス抜きを図った結果であることを僕はしばしば見かけた。三国志において曹操が食料担当が盗み食いしていたことにして首をはねて飢えていた兵士の不満をそらさせたことはこの傾向を巧みに扱った例だろう。
大人でもする行為だから子供がしても多めにみるべきというような風潮が僕には理解できない。大人がしてよくて子供がしてはいけないことなどたくさんあるのになぜ犯罪だけは許されるのだろう。得てして子供の犯罪はだれも責任をとらない。酒だの煙草だの娯楽的なものばかり関わった大人が責任を取らされるのに。しかしよく考えてみればいじめに関しては大人も責任をとっていない。いじめが発覚した場合学校はそれを知らなかったことにしようとする。知らなければ済む話でもないと思うのだが。囚人同士が殺し合っても知らん顔する看守と同じように感じる。それが正しい物事の形だとは思えない。
いじめを筆頭に未成年の犯罪を防ぐ最良の方法は子供の犯罪に保護者が当事者のように罰せられるようになることかもしれないが、そんなことになれば人はますます子供を産みたがらず少子化は一段と加速するだろう。どうしたらいいか。最近流行りの父権主義的なやりかたがいいんじゃないだろうか。インフォームド・コンセントだ。先にいじめが引き起こすだろう結果を子供に教えればいい。いじめが発覚した場合、いじめの深度によってそれが周囲に知らされあなたは親、担任、学年主任、生徒指導主事、教頭からそれぞれうんざりするほど長く追求され内申点に著しい影響を受け、親はたとえ謝罪しようと村八分的扱いを受け、引っ越しを余儀なくされることもしばしばあり、またその引越し先でもまた噂が広まり肩の狭い思いをすることになりうるが多くの場合いじめの被害者以外はいじめがあったことを忘れており、いじめの被害者は逆に参加しないことも多いため同窓会は気分良く過ごせますでしょう、みたいな感じで。
アニメーション映画はずっとむかしの作品ではあるのだが、見たのは比較的最近のことで一年前のことだった。そのとき付き合っていた女性とふたりベッドに横になりながら見ていた。雷が落ちるほどに大きな雨が降っていた。彼女は覚えていないだろう。おそらくそのあとにセックスをしたことも。しかし、いったい誰がむしろそれを覚えていられるだろう? この女性よりもまえに付き合っていた女性と別れたときもそうだったが、恋というつながりの糸が切れると途端に相手の思い出が消えていく。顔を忘れ、肌の匂いを忘れ、どこへ行ったかさえきっかけがなければ思い出せなくなって、あれだけ愛したはずの彼女の裸体すらいままでの他の女たちすべてと重なってどれがどれだったか判然としなくなってくる。そうしたうえで最後に残る彼女にまつわるものは残像のような人格だけになってしまう。これほどの消失は他にないんじゃないだろうか。友人たちは何年と会わなくとも、顔も声もあらゆるものがそのままに保存されて次にあったときに瞬時に整合性を確かめつつ同期されるというのに、ぼくは一つ前の彼女と久々に再会したとき話す言葉を何一つ見つけられなかった。それは僕が知っていた人物と似た人格を持つ全くの誰かでしかなく、脛にうまれつきある大きな痣だけ毛の伸びが早く夕方にはもう産毛が伸びているのを同一人物の証拠として認められただけだった。
女性が社会的に進出することにおいて女性性および男性性の偏見が取り除かれる必要があることを誰しもが認めていながらもそれは容易に進まない。この「美女と野獣」が公開されるまえに、自らフェミニストであるというエマ・ワトソンが物語に自分の価値観に基づいて進言をしたと聞いて期待していたが、すこし男性の同性愛的(しかも娯楽的に脚色された)描写が追加されただけだった。そもそもベルはまったくもって先進的でもないし、親を大切にしているだけで、読書好きといっても詩や恋愛物語が好きなだけで、結局のところ理想の王子様と結婚して幸せになりたいという従来のプリンセス像から離れておらず、フローズンのほうが遥かによかった。僕は自分の元カノがこの作品を見て感動するのがわかる。消えかかった彼女の残像から察することができる。プリンセスもののディズニー映画に感動する女性がいるかぎり男女の平等など来ないのではないかと思ってしまう。特に今は長い過渡期にある。差別はまず差別とすら捉えられず常識のうちにあり上辺は平和だ。差別が訴えられ始めてもはじめは大麻合法化を訴える人々を見るように胡散臭く見るだけだ。問題意識のようなものが人々に周知され始めるとそこではじめて受容のまえの強い反発の時期に入るようになる。それから反発の網をかいくぐってすこしずつ解放されていくわけだが、そのうちの反発の時期がいまだ。
インターネット上では女だたき、男だたきで満ち満ちている。男は女を外見と打算だけで生きる頭の悪い生き物だと叩いて、女は男を性欲だけで生きている野獣だと叩く。
結婚すること、子供を設けることを人生の最終目標のように考えている人間が多すぎると僕は感じる。妊娠する機能妊娠させる機能があったとしてそれは選択でしかないという考えが、男女の平等が実現した未来では当たり前になっているのではないだろうか。しかし少なくともこの映画をレイトショーで一人で見て、気づけば一人で誕生日を迎えていた僕がこのように荒んでいるのはまったくもって哀れ極まりないことだ。